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紫式部の死因に迫る!源氏物語・紫式部日記を書いた紫式部のお墓はどこにある?

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月12日

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紫式部の死因に迫る!源氏物語・紫式部日記を書いた紫式部のお墓はどこにある?

貴族が謳歌していた頃の平安時代、中宮彰子に仕え、後宮で華々しく生きた紫式部。
源氏物語と紫式部日記という、千年以上経った現在でも色あせることがない2つの作品を後世に残してこの世を去った紫式部の死因とお墓の場所に迫ります。紫式部の娘の行く末も合わせて、見ていきましょう。

紫式部の死因は諸説ありはっきりしない

『紫式部日記』は寛弘7年(1010)1月の記事で終わっています。ではその後の紫式部はどうなったのでしょうか。寛弘8年(1011)、一条天皇が崩御し、彰子が枇杷殿(びわどの)に移ると、紫式部もこれに従っています。

その年、越後(えちご)の国守に任じられた父の藤原為時を心配して越後へと行った弟が他界するという悲しい出来事が起こっています。

紫式部のその後の消息

その後の消息は、藤原実資(さねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』に残されている記録が最後です。
長和2年(1013)に、枇杷殿で藤原実資の対応に出た女房が「藤原為時女」とあり、紫式部であったと考えられているのです。少なくとも長和2年(1013)5月まで彰子に仕えていたことが分かります。

けれども、これを最後に記録が途絶え、紫式部のその後の消息は死因とともに不明です。40代半ばで死去したともされますが、没年は1014年や2年後、さらには1031年など諸説があってはっきりしていないのです。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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