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源頼義

平安時代中期の武将。河内源氏初代棟梁・源頼信(みなもとのよりのぶ)の嫡男。河内源氏2代目棟梁。1031年、『平忠常(たいらのただつね)の乱』を収束させた。1036年、相模守に任じられる。1051年、『前九年の役』が起こり、陸奥守・藤原登任(ふじわらのなりとう)が更迭され、その後任となる。鎮守府将軍を兼任し、奥州の騒乱の平定を期待された。が、苦戦し、1062年の『前九年の役』で陸奥の有力武将・安部氏を滅ぼした。

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鎌倉幕府を開いた人物「源頼朝」が幕府の設置場所として鎌倉の地を選んだのはなぜ?

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