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盛岡の歴史~市町村制施行で県都となり急速に近代化が進んだ~ 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月18日

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盛岡の歴史~市町村制施行で県都となり急速に近代化が進んだ~

明治維新を迎えたあと、盛岡藩は全国に先がけて廃藩を願い出て県となりました。
県内には鉄道が敷設され、発電所も建設されるなど、近代化が進みます。

【盛岡の歴史】戊辰戦争に敗北した盛岡藩の処遇

戊辰戦争で最後まで新政府軍に抵抗した盛岡藩は、戊辰戦争終結後、13万石に減封のうえ、7万両の賠償金の支払いが課せられ、さらに旧仙台藩領である白石(しろいし)(宮城県白石市)への転封を命じられました。このとき盛岡では領民が国替え阻止と南部氏の旧領復帰の嘆願運動を展開し、1869(明治2)年に南部利恭(なんぶとしゆき)は旧領に復帰することになります。

しかし、石高は13万石(岩手、紫波(しわ)、稗貫(ひえぬき)、和賀(わが)の4郡)のままでした。

戊辰戦争後の岩手県域の藩と県

この時点で現岩手県域には盛岡、八戸、一関の3藩と、江刺、胆沢、三戸の3県が存在していました。同年11月には、斗南(となみ)藩が創設されることになり、三戸県のうち北郡、三戸郡、二戸郡の一部は斗南藩領となり、残りは江刺県に編入されます。

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