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黒川良安は坪井信道の「日習堂」に入門

シーボルトや緒方洪庵(おがたこうあん)にも学び、緒方洪庵らの勧めによって、江戸の蘭学医・坪井信道(つぼいしんどう)の「日習堂(にっしゅうどう)」に入門。そこには後の思想家・佐久間象山(さくましょうざん)もおり、親交を深め、蘭学を教授します。黒川良安は塾頭に抜擢されるほど信頼が厚かったようで、坪井信道が緒方洪庵に宛てた手紙には、才能・人徳・志の三拍子がそろっていると賞賛されました。

黒川良安は医師として加賀藩に戻る

医師として加賀藩に戻り、現在の金沢市片町(かたまち)で開業。その翌年、29歳のときに12代藩主・前田斉泰(なりやす)の侍医となって、80石を与えられました。

黒川良安は加賀藩で初めて天然痘の予防接種を実施

黒川良安の名を知らしめたのが「天然痘(てんねんとう)」との戦いです。天然痘は人類が根絶した唯一の感染症といわれ、昭和55(1980)年にWHOが世界根絶宣言をおこないました。しかし江戸時代には、およそ30年に1回の頻度で流行を繰り返しており、感染力が非常に強いことで知られていました。特に小児病として恐れられ、当時の日本人の死因第1位だったともいわれます。黒川良安は、加賀藩で初めて種痘(天然痘の予防接種)を実施。最初の治験対象は長男であったという説もあります。金沢彦三(ひこそ)郵便局前には「金沢大学発祥の地」の石碑が建っていますが、ここはかつての種痘所があった場所で、現在の金沢大学医学類の源流の1つになったともいわれています。

黒川良安は日本初の水質調査で食中毒の原因を探る

また、加賀の豪商として知られた銭屋五兵衛の河北潟開拓事業で食中毒事件が起きた際、日本初とも言われた水質調査をおこない、原因究明にあたったことも功績として知られています。安政4(1857)年、黒川良安は藩主に随行して江戸詰となり、その語学力を買われて、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)(幕府の洋学研究機関)で教授手伝も務めています。

黒川良安が金沢へ持ち帰ったキンストレーキ

慶応3(1867)年、加賀藩13代藩主・前田慶寧(よしやす)は、貧民救済と病院経営を目的に、金沢の卯辰山(うたつやま)に養生所を設立。黒川良安はそこで頭取に命じられ、若い医師の育成に情熱を注ぎます。海外諸国に負けない医学館をつくるため、再び長崎の地に赴いており、そこから金沢へ持ち帰ったのがフランス製のキンストレーキ。人体解剖学の模型で、オランダ語で人工死体を意味します。この模型は福井県に2体、長崎県にも1体ありますが、金沢のものは筋肉の色や血管なども精巧かつ鮮明で、いちばん保存状態がよいものです。内臓のパーツはすべて取り出せるようになっており、現在も金沢市指定有形文化財として金沢大学で保管されています。

黒川良安没後130年で起こったパンデミック

明治3(1870)年に金沢藩医学館が創設されると、黒川良安は総督医となり、ここでも後人の育成に尽力。廃藩置県と同時に職を退き、73歳の生涯を閉じました。

穴の谷霊場の駐車場には顕彰碑があります。

2020年に新型ウイルスが流行

奇しくもその没後130年にあたる2020年、新型コロナウイルスが世界中で流行。未知のウイルスに悩まされる人々の姿は、江戸時代も現在もそう変わらないことでしょう。しかし現代よりはるかに医学が未成熟だった時代、感染症と向き合った黒川良安の功績は、少なからず希望をくれるはずです。

黒川良安だけじゃない!世界の危機を救った稲塚権次郎

人々を苦しめるのは病だけではありません。1950年代、インドやパキスタンの人々は食糧危機に喘いでいました。それを救ったのはアメリカの農学者ノーマン・ボーローグ博士丈夫で成長が早い新品種の小麦を開発し、人々を飢えから救った功績は「緑の革命」と呼ばれ、昭和45(1970)年にはノーベル平和賞を受賞します。受賞の約10年後、博士は来日して金沢市で講演をおこない、「稲塚権次郎先生のおかげ」と語っています。ボーローグ博士が開発した品種の親が、稲塚権次郎が開発した小麦の種子だったからです。

稲塚権次郎が手掛けた「ノーリン・テン」が世界を救った

現在の南砺市にあった農家で生まれた稲塚権次郎は、家から学校までを往復4時間かけて通い、常に本を読みながら歩いているような学生でした。ダーウィンの『種の起源』に影響を受けて育種家を志し、東京帝国大学農科大学を経て、農商務省の試験場で小麦の品種改良に取り組みます。昭和10(1935)年に開発した種子は極めて収穫量が多かったため、GHQの農業顧問が着目。アメリカへ持ち帰り、そこでボーローグ博士がこれをもとに新品種の開発をおこなうことになったというのが経緯です。

ボーローグ博士が開発した品種のもととなった種子「小麦農林10号」は、「ノーリン・テン」と呼ばれて広く知られました。ちなみに稲塚権次郎は小麦だけでなく稲の開発もおこなっており、手がけた「水稲農林1号」はコシヒカリの交配親にも使われ、多くの品種の祖先となったのです。

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富山県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。富山の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報満載!

Part.1 地図で読み解く富山の大地

・立山連峰との高低差4000m!「きときと」ぞろいの富山湾
・黒部ダムが大電源を生み出すまで
・崩壊を続ける立山カルデラ
・極東の氷河の南限は立山! 国内初の氷河認定とライチョウ
・神秘の光景! 魚津の蜃気楼と雨晴海岸の気嵐
・2000年前に形成された魚津埋没林
・富山の水がおいしいヒミツ
・立山の地下には「何か」がある! 活断層はあるのに地震が少ない理由
・富山湾のホタルイカはなぜ有名?

…など

Part.2 富山を駆ける充実の交通網

・北陸新幹線開業による光と影
・河川敷にある富山きときと空港
・SDGs未来都市に選定 ライトレールが象徴するまちづくり
・伏木港は神戸港に憧れた男の夢
・立山の観光ルートは1つじゃない? 一般開放が待ち遠しい黒部ルート
・マッターホルンの麓町から着想 低速電気バスEMUと宇奈月温泉
・鉄オタ集結地! 富山県は公共交通の宝庫
・V字峡谷を走るトロッコ電車

…など

Part.3 富山の歴史を深読み!

・江戸時代は鮎だった! 駅販売で広がったます寿し
・富山県成立までの複雑な歴史/越中の英雄・佐々成政の人物像
・焼け野原と化した富山大空襲/富山の遺跡&古墳は個性派ぞろい
・放生津に存在した亡命政権
・越中の伊能忠敬 射水出身の測量家・石黒信由
・越中の黄金郷 加賀藩極秘の「越中の七かね山」
・北陸近代医療の父・黒川良安
・世界遺産は加賀藩の軍事工場 五箇山でおこなわれた塩硝づくり

…など

Part.4 富山で育まれた文化や産業

・「越中おわら節」はなぜ有名?
・財政難を立て直した富山の売薬
・布教のためのテキストだった 曼荼羅から読み解く立山信仰
・秀吉も称えた伝説の刀工・郷義弘
・売薬商人は危ない橋を渡っていた? 薬の密貿易が生んだ昆布文化
・有名な創業者も多く輩出 富山県民は倹約家で働き者
・ジャポニズムの立役者・林忠正
・アニメの聖地が多い富山県
・瑞泉寺再建から始まった井波彫刻

…など

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