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承久の乱勃発!~公武の力関係を大きく変える中世最大級の大乱~

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月20日

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承久の乱勃発!~公武の力関係を大きく変える中世最大級の大乱~

【要点はココ】
◎後鳥羽上皇が北条義時追討を命じます。
◎北条政子の名演説が御家人たちを団結させました。
◎幕府軍は3軍に分かれて京都へ攻め上がり、朝廷軍を圧倒。承久の乱は幕府の勝利で終わりました。

承久の乱のきっかけは後鳥羽上皇の義時追討令

源実朝暗殺から2年後の1221(承久3)年、後鳥羽上皇が立ち上がりました。後鳥羽は北面の武士、西面の武士、さらに京都の治安維持にあたっていた関東の御家人を集め、北条義時追討を命じたのです。

後鳥羽に背(そむ)いた者は、朝廷から「逆臣(ぎゃくしん)」とみなされ、討伐の対象とされてしまいます。それだけは避けたいということで、朝廷の影響力の強い西国には上皇方につこうとする武士が多くいました。

そうしたなか、頼朝の妻で「尼将軍(あましょうぐん)」と呼ばれていた北条政子が動きます。政子は動揺する関東の御家人たちを前に、「頼朝の恩は山よりも高く、海よりも深い……」と演説しました。この檄(げき)に多くの御家人が感銘を受け、打倒上皇のために団結したのです。

承久の乱勃発!幕府軍は京都へ進撃

5月22日、北条義時の子北条泰時を大将とする幕府軍は鎌倉を出発。東海道、東山道、北陸道の3ルートに分かれて京都に攻め上がりました。承久の乱の勃発です。

進軍中、19万もの兵を集めた幕府軍に対し、朝廷軍は東国の武士の徴兵がうまくいかず、各地で敗戦を重ねます。その勢いをかって、幕府軍は一気に京都に入り、朝廷軍を降伏させました。こうして幕府と朝廷による大乱は、幕府の大勝利で幕を閉じたのです。

三方から京都を攻める幕府軍

幕府軍は3軍に分かれて京都を目指します。総軍勢は19万といわれ、東海道に10万余、東山道に5万余、北陸道に4万余という内訳でした。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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