フリーワード検索

ジャンルから探す

トップ > カルチャー >  全国 >

各地に残る安徳天皇陵墓と歴史書から読み解く安徳天皇生存説

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2022年5月24日

この記事をシェアしよう!

各地に残る安徳天皇陵墓と歴史書から読み解く安徳天皇生存説

江戸末期の文化14(1817)年、摂津国能勢(現大阪府豊能郡能勢町)の民家の屋根裏から発見された古文書は、平安の貴族藤原経房が息子にあてた遺書でした。そこには壇ノ浦から安徳天皇を守って山里能勢まで逃れてきたこと、そして天皇はこの地で亡くなられたことが書いてありました。
この藤原経房の遺書以外にも歴史書を読み解くと、安徳天皇は壇ノ浦の戦いから逃れ、生きていたと考えられる説がいくつも見られます。また、この遺書が残されていた能勢以外にも、安徳天皇陵墓は日本各地に残ります。

この記事は、著者能勢初枝が平成23年に書籍として出版した『ある遺書-北摂能勢の安徳天皇伝承』から一部を抜粋したものです。※現在当該書籍は絶版となっています。

安徳天皇の体質を歴史書から読み解く

『平家物語』をはじめ、『源平盛衰記』『吾妻鏡』などおおかたの書物が、「御年のほどよりはるかにねびさせ給ひて」と、年齢よりはるかに大人びていたと書いています。

安徳帝は、虚弱であったらしいです。安徳天皇誕生の後、「頼豪(らいごう)という僧の呪いで、白河院の皇子が早死した話」など、「御悩(おのう)」(病気)という言葉がしきりに出て来ます。安徳天皇が短命であったことを示唆しているとともに、虚弱であった印象がぬぐえません。当然、身体が大きかったとは思えませんが、大きく見えたとみな書いているのです。
また、誕生時の逸話として、皇子なら甑(こしき)を棟から南へ落とす宮廷のしきたりを、役人が間違えて女子のように北へ落としたと『平家物語』などが伝えていて、安徳皇女説は、けっこう根強くあります

1 2

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!

エリア

トップ > カルチャー >  全国 >

この記事に関連するタグ