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太宰府の歴史と2人の人物との関係~大伴旅人と菅原道真~

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日:2022年2月23日

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太宰府の歴史と2人の人物との関係~大伴旅人と菅原道真~

「令和」の典拠となった「万葉集・梅花の宴」が詠まれたといわれる太宰府。いつ、どのような場所でどんな人物が詠んだ歌なのか?太宰府の成り立ちとともに振り返ってみましょう。

太宰府の歴史は1300年前の大宰府跡からはじまる

福岡県の中西部に位置する太宰府市は、学問の神様・菅原道真公を祀る太宰府天満宮や平成17(2005)年に開館した九州国立博物館などで知られており、年間約1000万人が訪れる街です。この太宰府市の中央部に広がるのが、地名の由来であり1300年の歴史を伝える特別史跡・大宰府跡です。

太宰府天満宮から坂本八幡宮までは車で7分ほどの距離。坂本八幡宮から大宰府展示館までは600mほどなので徒歩でも移動でき、併せてめぐりたいところ。

太宰府の歴史と成り立ち①:重要な役割をもつ地方の役所として機能

「大宰府」とは古代律令制の下、西海道(九国三島のち九国二島)を統轄するとともに、東アジアの国々との外交や貿易の窓口、辺境防備という重要な役割を担った地方における最大の役所です
大宰府の起源については明確ではありませんが、536年に設置された那津官家(なのつのみやけ)などの博多湾周辺にあった組織に源を発すると考えられています。660年に日本と友好関係にあった朝鮮半島の百済(くだら)が唐・新羅連合軍によって滅亡する事態を受け、663年に百済再興のため出兵しますが白村江(はくそんこう)で大敗を喫してしまいます。

大宰府は防衛体制を整えるために現在の地へ

敗戦により敵の侵攻という国家的危機に直面したため、内陸部へ向かって福岡平野が一番狭まる地点に高さ約10m、長さ約1.2kmに及ぶ巨大な土塁である水城(みずき)を664年に築き、さらに翌665年には大宰府の北側にある四王寺山(しおうじやま)に大野城、南側の基山に基肄城(きいじょう)という古代山城を築造して防衛体制を整えました。この頃、博多湾周辺にあった組織が現在の太宰府市一帯の内陸部へと移され、大宰府が成立したと考えられています。

太宰府の歴史と成り立ち②:名前の由来

ダザイフ」は本来、天皇の命令を受けて地方で政治を行う役人が働く役所を意味する「おおみこともちのつかさ」として「大宰府」の字が用いられていたようです。しかし、平安時代には既に「太宰府」の用例がみられ、長い間「大」と「太」の混在が続いてきました。
戦後、大宰府研究の高まりを受け、50年ほど前から律令制下の役所を指す場合は「大宰府」現在の行政名や地域名称、天満宮等には「太宰府」を用いることが提唱され現在へ至っています。

太宰府の歴史と成り立ち③:国際文化都市として発展

古代の大宰府は、北の中心地に政庁が置かれ、奈良や京の都と同じく碁盤の目のような町割り(条坊(じょうぼう))がなされていました。また、政庁の東側には府の大寺である観世音寺、西北には国分寺・国分尼寺、東北には安楽寺(後の太宰府天満宮)などの寺院が創建されました。
多くの人々で賑わう大宰府は九州における政治・経済・文化の中心であり、まさに「西の都」といわれる国際文化都市でした。

太宰府の歴史と深くかかわる万葉集

海を渡ってもたらされる海外の文化と、朝廷から赴任してくる高官たちによって伝えられる都の文化とが混ざり合う大宰府では様々な文化が花開きますが、そのひとつに和歌があります。日本最古の歌集『万葉集』には、筑紫(九州)にまつわる歌が300首ほど収められており、後に万葉筑紫歌壇とも称されますが、その中核となった人物が大伴旅人(おおとものたびと)でした。

大宰府で大伴旅人が詠んだ歌と新元号「令和」

神亀4(727)年頃、大宰府の帥(そつ)(長官)として赴任した旅人は、筑前守であった山上憶良(やまのうえのおくら)をはじめとする官人らと交友を深め、数多くの歌を残しました。その代表が天平2(730)年正月13日に旅人の邸宅で開催された「梅花宴(ばいかのえん)」です。
大宰府や九州諸国の役人ら32人が参加して、当時は貴重であった中国渡来の白梅をテーマとして歌を詠んだことから「梅花の宴」と呼ばれていますが、この宴のはじめに述べられた序文の一節が新元号「令和」の典拠となり、一躍注目を浴びることとなりました。

読み下し「初春の令月にして 気淑(よ)く風和ぎ梅は鏡前の粉を披(ひら)き蘭は珮後(はいご)の香を薫ず」。訳はこうです。「あたかも初春のよき月、気は麗うららかにして風は穏やかだ。梅は鏡台の前のお白しろい粉のような色に花開き、蘭草は腰につける匂においぶくろ袋のあとに従う香に薫っている」。

大宰府の大伴旅人邸宅の所在地候補①:坂本八幡宮

「梅花の宴」の舞台となった大伴旅人の邸宅ですが、その所在地はまだ明らかではありません。旅人が大宰府で詠んだ歌に「わが岡に…」という歌が数首あるため、丘陵地に隣接した場所にあったと推定されており、数か所の候補地があります。元号「令和」の発表と共に多くの人が参拝に訪れた坂本八幡宮は、その候補地のひとつです。
もともと坂本八幡宮は、坂本地区の土地神、産土(うぶすな)神として祀られていた神社で、戦国時代の天文・弘治年間頃に勧請(かんじょう)されたと伝わっています。戦後、神社の周辺一帯が旅人の邸宅跡ではないかとの学説が出されて以来、推定地として万葉歌碑が建立され、梅が植樹されるなど、地元で大切に守られてきました
周辺地域は昭和40年代から60年代にかけて数回の発掘調査が行われ、掘立柱建物跡や鍛冶工房の跡を示すような出土物が出ましたが、長官クラスの大規模な建物跡などは確認されておらず、今後さらに調査が進めば旅人の邸宅跡が姿を現すかもしれません。

大宰府の大伴旅人邸宅の所在地候補②:月山東地区官衙跡

また、大宰府展示館の東側にある月山東地区官衙跡(つきやまひがしちくかんがあと)も候補地のひとつです。
発掘調査では、複数の建物跡やそれら建物を囲むような東西約110m・南北約70mに及ぶ大規模な柵列が確認されています。さらに、隣接する大宰府展示館では玉石敷の溝が保存・公開されていますが、通常の排水溝とは違い石が綺麗に敷き詰められており、大規模な建物と区画、そして特殊な溝の存在から、旅人の邸宅跡候補地のひとつとして考えられています。

大宰府の歴史を語るうえで欠かせない「菅原道真」

大伴旅人が華やかな「梅花の宴」を開催してから約170年後、大宰府の地へと流されてきたのが菅原道真公です。当時、天皇を補佐し政務を司る右大臣を務めていましたが、昌泰4(901)年、政略によって突如大宰権帥(だざいのごんのそつ)として大宰府へ左遷されてしまいます。
失意の道真公が大宰府で滞在したのが、現在の榎社(えのきしゃ)がある「府の南館」と呼ばれる館でした。
大伴旅人とは対照的に、道真公は政庁で政務を執り行うことはなく、館で謫居(たっきょ)の日々でした。大宰府で道真公が詠んだ漢詩のひとつ「不出門」には「都府樓纔瓦色看(都府の楼にはわずかに瓦の色を看る)觀音寺只聽鐘聲(観世音寺にはただ鐘の声をのみ聴く)」とあり、館から一歩も出られない境遇での心境が綴られています。

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