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備中高松城を血を流さずに攻め落とせ!~難攻不落の城~ 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月26日

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備中高松城を血を流さずに攻め落とせ!~難攻不落の城~

秀吉三大城攻めの一つと語られる、備中高松(びっちゅうたかまつ)城の水攻め。対織田軍の防衛ラインの主城となった備中高松城は、どのように落城したのでしょうか。

備中高松城が攻め落とされた当時の時代背景

1570~1580年代は、中国地方を治める毛利(もうり)軍と中国地方進出をもくろむ織田軍との間で、小競り合いが繰り返された時代です。1573(天正元)年に将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放した織田信長は、天下統一を加速させます。一方毛利氏は、毛利元就(もとなり)の跡を継いだ毛利輝元(てるもと)を、吉川元春(きっかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)が支える形で領国を維持。吉川元春が山陰方面軍を、小早川隆景が山陽方面軍を担当し、山陽10カ国を平定していました。

備中国境付近は毛利軍VS織田軍の最前線だった

天下統一をもくろむ織田軍にとって、最大の敵が毛利です。中国方面軍の指揮を任された羽柴(はしば)秀吉は、毛利氏が治めていた因幡(いなば)や但馬(たじま)に進出。毛利方の城を次々と攻略していきました。1579(天正7)年、宇喜多直家(うきたなおいえ)の寝返りにより 備前(びぜん)が織田の手に落ちます。これによって毛利軍VS織田軍の最前線は、備中(びっちゅう)国境付近となりました。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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