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備中高松城は織田軍の侵攻を阻止する「境目七城」の一つ

宇喜多氏と織田軍の連合軍が備中を切り崩しにかかることは、容易に想像がつきます。毛利輝元は国境線を維持するために、備前と備中の国境に対織田軍防衛ラインを築くことを命じます。備中の国境線に沿う形で整備された城は「境目七城(さかいめしちじょう)」と呼ばれ 、織田軍を迎え撃つ態勢を整えます。

備中高松城は、この「境目七城」のうちの一つです。境目七城の中では最も規模が大きく、主城として位置づけられていたと考えられています。この当時は毛利氏への忠誠心が厚い清水宗治(しみずむねはる)が城主を務めていました。

備中は当時毛利の支配下にありました。宇喜多の備中侵攻を食い止めるため、毛利は備中の国境に沿って、北から、宮路山城・冠山城・備中高松城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城を築きます。
国土地理院標準地図(タイル)を元に作成。

備中高松城に秀吉が仕込んだ寝返り工作

1582(天正10)年3月15日、秀吉率いる2万の織田軍が毛利討伐のために姫路(ひめじ)を出立。宇喜多領に入り、毛利攻めの準備を始めます。寝返り工作を得意とする秀吉は、黒田官兵衛(くろだかんべえ)と蜂須賀小六(はちすかころく)を備中高松城に派遣。清水宗治に毛利を裏切るように進言しますが、宗治はこれを拒否。秀吉はやむなく、力攻めに方針を転換します。

備中高松城は敵陣に取り囲まれるも落城せず

4月20日、宮路山城(みやじやまじょう)と日幡城(ひばたじょう)が落城。4月25日には激戦の末、冠山城(かんむりやまじょう)も落城します。秀吉軍はそのまま部隊を移動させ、備中高松城に進軍しました。石井山に秀吉と黒田官兵衛、 八幡(はちまん)山に宇喜多勢、生石(おいし)神社に加藤清正(かとうきよまさ)がそれぞれ布陣。備中高松城は、完全に取り囲まれてしまいます。しかし清水宗治は、全く動じませんでした。4月26日には一番近くに布陣していた堀尾吉晴(ほりおよしはる)の陣に総攻撃をかけ、426人を討ち取ります。この攻撃を皮切りに、毎日のように周辺で小さな戦闘が繰り返されることとなります。5月2日には宇喜多勢が1万の軍勢で総攻撃をかけますが、備中高松城は落ちません。攻めあぐねる秀吉に、黒田官兵衛が提案したのが「水攻め」です

備中高松城の「水攻め」

秀吉は、足守川(あしもりがわ)の流れを城周辺に引き込むように堤防を築堤。5月8日から工事を進め、5月20日には総延長約2.7km・基礎22m・高さ8m・ 天端(てんば)(一番高い部分)11mの堤防を築き上げます。工事期間わずか12日という、突貫工事でした。「米俵に土を詰めて堤防に置いたら、米俵1俵につき米1升と銭100文をやる」と喧伝し、近隣の農民に協力させたという説がありますが、城の周辺は人口1000人程度の小さな集落 で、人海戦術を行うには心もとない人口です。実際は1万人の将兵で取り囲んでから、2万人で土木工事に当たらせたのではないかと推察されています。兵糧や兵の補給をさせないため、堤防の上には多数の櫓やぐらを配置。梅雨時ということもあり、備中高松城はわずかな時間で水没したといわれています。

備中高松城周辺の特殊な地形が水攻めの決め手に

黒田官兵衛は、備中高松城周辺の特殊な地形から水攻めを思いついたといいます 。備中高松城は戦国時代の城としては珍しく平地に築城されており、周辺には低湿地が広がっています。近くを流れる足守川は、梅雨時になるとたびたび氾濫する「暴れ川」で、堤防がなくても水が溜まりやすい土地だったのです。また、城が水没したことにより溺死した兵は記録されていません。「本丸から二の丸に移動するために船が必要だった」という記録があるため城が水没したのは事実でしょうが、実際の水深は1m程度だったのではないかと推察されています。

備中高松城に毛利の援軍が到着も時すでに遅し

5月21日になって、備中高松城付近に毛利の援軍4万が到着します。しかし時すでに遅く、水没した城を前に手は出せませんでした。ただ、ここで気になるのが毛利軍の布陣です。吉川元春は8000人の軍で庚申(こうしん)山に、小早川隆景は1万2000人の軍で 日差(ひさし)山に布陣するのですが、いささか備中高松城から距離が離れすぎています。日差山と備中高松城は10km以上離れていますが、当時の行軍平均時速は1km程度で、急いでも時速2km程度がせいぜい。たとえ援軍がいたとしても駆け付けるまでに5時間以上かかるのでは、戦力として期待するのは難しい位置です。毛利軍は援軍として駆け付けたというより、和睦・講和を見越して動いた可能性もあります。

国土地理院標準地図(タイル)を元に作成。

毛利と秀吉の講和交渉は決裂

5月25日、秀吉は毛利軍との講和交渉に着手します。毛利側は安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を交渉役に立て、「備中・ 備後・美作・因幡・伯耆(ほうき)の5カ国を割譲」を条件に和睦を提案。しかし美作・因幡・伯耆の一部はすでに織田領となっているため、実質の割譲地は備中と備後のみ。しかも信長に毛利成敗を命じられている秀吉としては、敵将の首はぜひともほしい。さらなる領土の割譲と清水宗治の切腹を求める秀吉側と、「5カ国を割譲してもよいから、清水宗治を救いたい」という気持ちが強い毛利側との交渉は、物別れに終わります。5月27日に2度目の講和交渉が行われますが、平行線のまま決裂。両軍がにらみ合いを続ける、こう着状態に陥ります。

清水宗治が自らの命を差し出し講和交渉が成立

ところが6月3日、戦況が大きく動きます。本能寺の変を知らせる密使が、秀吉の陣に届けられたのです。秀吉は、明智光秀を討つために畿内(きない)へ戻ることを決断。そのためにはどうしても、毛利側と和睦する必要がありました。6月3日の夜半、秀吉は安国寺恵瓊を呼び出し、3度目の講和交渉を開始。講和条件を大幅にゆるめ「備中・伯耆の割譲と清水宗治の切腹と引き換えに、城兵の命を助ける」と提示した。清水宗治を救いたい吉川・小早川は難色を示しますが、清水宗治本人が「自分の命と引き換えに、主家の領国と城兵の命が助かるなら」と了承。6月4日の昼前、秀吉本陣の近くまで船で漕ぎ出し、船上で切腹しました。宗治の切腹を見届けた秀吉は、「武士の鏡」と称えたといわれています。

備中高松城に到着した毛利軍が秀吉軍を追撃しなかったのは

秀吉軍が陣払いの準備を始めた6月5日、遅ればせながら毛利側に信長横死を告げる密使が届きます。無防備な秀吉軍を背後から攻めることはできたはずですが、毛利軍は追撃を行いませんでした。「中国大返しの殿(しんがり)を務めた黒田隊が、陣払いの際に堤防を決壊させたせいで下流に大洪水が発生し、その対応に追われた」、「講和を破棄して追撃しようとした吉川元春を、小早川隆景が止めた」など諸説あり、事情があって追撃できなかったのか、あえて追撃しなかったのかは分かりません。しかし秀吉は天下統一後、毛利(特に小早川家)を厚遇しています。備中高松城での早期和睦とその後の行動が、毛利の命運を決めたことは間違いないでしょう。

備中高松城址の宗治蓮

備中高松城の跡は、現在公園として整備されています。公園の中央にある7000㎡にわたる広大な堀は、蓮の名所として知られています。この蓮は誰かが植えたものではなく、戦国時代にあったとされる沼を復元した際に土中に眠っていた蓮が芽吹いたもの。約400年ぶりによみがえった蓮は「宗治蓮」と呼ばれ、7月中旬に見頃を迎えます。

備中高松城址公園

住所
岡山県岡山市北区高松558-2
交通
JR吉備線備中高松駅から徒歩10分
料金
入館料(高松城址公園資料館)=無料/

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