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長谷川等伯は千利休の後ろ盾を得て名刹・大徳寺で絵を描いた

京都入りした長谷川等伯は、日蓮宗の寺院「本法寺(ほんぽうじ)」を頼りました。生家である奥村家の菩提寺「本延寺」の本山だったからです。その塔頭(たっちゅう)に住み込みながら、長谷川等伯は制作活動を再開しましたが、当時の京都は狩野派の牙城。一派を束ねていたのが狩野永徳で、そこに属する絵師はエリートぞろいであったといいます。狩野派ではない画家が仕事を得ることは当然難しいものでした。

しかし、長谷川等伯には運が味方しました。本法寺住職の日通(にっつう)上人が和泉国堺の出身であったこともあり、長谷川等伯は堺の商人たちと交流をもつようになります。堺には裕福な商人が多く、彼らは文化にも理解を示しました。しかもそのなかに、千利休がいたのです。のちに利休が京都の「大徳寺」に「金毛閣(きんもうかく)」を寄進する際、その天井と柱の装飾画を長谷川等伯に依頼しています。名刹で知られた大徳寺において、地方出身の長谷川等伯が狩野派を押しのけて絵を描いたということは、当時の画壇に衝撃をもたらしました

長谷川等伯は千利休の後ろ盾を得て名刹・大徳寺で絵を描いた

大徳寺

長谷川等伯が描いた三玄院の『山水図襖』

さらに長谷川等伯は、この大徳寺の塔頭のひとつ「三玄院」の襖に『山水図襖』を描いています。前々から襖絵を描きたいと懇願してきた長谷川等伯を、当時の三玄院の住職は拒み続けてきました。しかし長谷川等伯は諦めきれず、住職が留守の日に院を訪ね、勝手に襖絵を描きだすという暴挙に出ました。しかも住職が帰ってくる前に一気に絵を完成させてしまったといいます。帰ってきた住職は激怒しましたが、絵の素晴らしさに感心したのか、結局そのまま絵を残すことにしたという逸話があります。

博打のような行動でしたが、これが吉と出て、長谷川等伯はその後も大きな寺院での仕事を獲得していきました。

長谷川等伯は狩野永徳の死後天下一の絵師に

こうして、京都でも長谷川等伯の名が知れ渡るようになりました。念願の京都御所での仕事が決まりかけるほどでしたが、それまでに宮中の仕事を請け負っていた狩野派に阻害されたようです。
しかし、狩野永徳がこの世を去ると、狩野派は一時的に衰退。そこで長谷川等伯は確実な好機を得ることとなりました。

この頃、秀吉の息子・鶴松が亡くなり、その弔いのために菩提寺「祥雲寺(しょううんじ)」(現在の智積院(ちしゃくいん))が建てられることになり、その障壁画を秀吉が長谷川等伯に依頼したのです。そうして生まれた国宝『楓図』は、紅葉し始めた楓とその根元を彩る草花が優美に描かれており、当時の画壇に衝撃を与えたたといわれます。秀吉も大いに満足する出来でした。

長谷川等伯は狩野永徳の死後天下一の絵師に

智積院

長谷川等伯が見舞われた不幸と『松林図屏風』の謎

ようやく天下一の絵師になる夢を叶えた長谷川等伯でしたが、今度はその息子・久蔵が他界しました。後継者と目していた息子の死は、長谷川等伯の胸を抉るものであったでしょう。

国宝『楓図』完成の前年には、秀吉の怒りを買った千利休が自害しており、長谷川等伯は二重の悲しみに襲われました。やりきれない悲しみを抱え、誰のためでもなく、ただ長谷川等伯自身のために描き上げたといわれるのが、『松林図屏風』です。

水墨画の最高峰として知られる作品ですが、具体的にいつ完成したものなのかは分かっていません。また、紙の継ぎ目のズレや、あとから押されたような印が見られることなどから、 完成品ではなく下絵なのではないかと考える研究者もおり、多くの謎に包まれています。それでも、墨の濃淡や余白の美でリアルな奥行きを感じさせるこの作品は、長谷川等伯の代表的作品と評されます。

長谷川等伯が生まれた能登半島の海岸には、この絵とよく似た松林が広がっています。次々と大事な人を亡くした長谷川等伯の心には、遠く離れた故郷の風景がよぎったのかもしれません。

石川県七尾美術館周辺図

石川県七尾美術館周辺図

石川県七尾美術館では、等伯の作品を6点所蔵。また、近くには生家奥村家の菩提寺「本延寺」もあります。

石川県七尾美術館周辺図

石川県七尾美術館

石川県七尾美術館

住所
石川県七尾市小丸山台1丁目1
交通
JR七尾線七尾駅から市内循環バス「まりん号」順回りで8分、七尾美術館前下車すぐ
料金
一般350~800円、高・大学生280~350円、中学生以下無料(各種障がい者手帳持参で割引あり)

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