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川島芳子~運命に翻弄され、戦乱を生きた東洋のマタ・ハリ

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月12日

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川島芳子~運命に翻弄され、戦乱を生きた東洋のマタ・ハリ

「日本と支那の楔(くさび)となって生きる人間だ」と教えられ育った川島芳子。“2人の父”の願いを叶えるため、祖国の復興という夢を追い求め、生まれ持った性を捨てて勇ましく戦乱の中を生き抜くと誓います。

男の姿となっても、その端正な容姿と突飛な行動はつねに注目を浴び、「男装の麗人」として多くの人の心を惹きつけました。
死刑判決後も共犯者は明かさず一人で責任を負った彼女。遺体の服からは辞世の詩「家あれども帰り得ず...」が見つかりました。

川島芳子は清朝の皇族に生まれ日本人の養女に。2人の父の背中を見て育つ

清朝皇族第10代粛親王(しゅくしんのう)の14番目の王女として、北京に生まれた金璧輝(きんへきき)(愛新覚羅顕㺭)(あいしんかくらけんし)。彼女こそが川島芳子です。

4歳のときに清国が滅亡すると旅順(りょじゅん)に逃れ、その2年後、日本の大陸浪人・川島浪速(なにわ)の養女として来日します。義和団事件で通訳として中国に渡っていた川島浪速は、日本軍撤退後も現地で雇用され、粛親王とは義兄弟の契ちぎりを交わすほどの仲でした。〝2人の父〟を持つかつての王女は「芳子」の名を受け、日本で一般市民として学校に通います。

中国人蔑視が激しく、友人には恵まれませんでしたが、日本語はみるみる上達。日々の習い事をこなし、成績も優秀だった川島芳子は、飛び級をして首席で学年を終えました。跡見女学校2年のときに川島浪速の故郷、長野県松本市に移住し、松本高等女学校に入学。父らの影響により、満蒙(まんもう)独立を果たすことを宿命と感じるようになるのです。

川島芳子は馬で通学!?異彩を放った学生時代

日本では一般の学生でありながらも、清朝最後の王女。学校には馬に乗って通学しました。ある日、手綱が解けた馬が教室に入ってきて、教室全体がパニックに。また雑巾を床に置くと足で拭いて、教師を呆れさせたこともあったといいます。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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