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蘇我氏の専横政治~巨大化しすぎた蘇我氏の力。蝦夷・入鹿父子が政治を牛耳るが…

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月12日

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蘇我氏の専横政治~巨大化しすぎた蘇我氏の力。蝦夷・入鹿父子が政治を牛耳るが…

聖徳太子の死後、蘇我氏が著しく増長していきました。蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子は皇位継承をめぐって対立する相手を次々に殺害していきます。蘇我氏の専横を誰も止めることができなかったのです。

蘇我氏の専横政治

推古天皇のもとで聖徳太子と蘇我馬子が主導した国政改革の結果、中央集権体制は着実に進みました。しかし、622年に聖徳太子が亡くなるとパワーバランスが崩れ、蘇我氏の権力が天皇に匹敵するほどに増大します。蘇我蝦夷・入鹿父子の専横ぶりが甚(はなはだ)しくなっていきます。

628年、朝廷内で推古天皇の後継者をめぐる対立が生じたとき、蘇我蝦夷は田村皇子(たむらのみこ)(のちの舒明(じょめい)天皇)を推し、対立候補として山背大兄王(やましろのおおえのおう)(聖徳太子の子)を推した叔父の境部摩理勢(さかいべのまりせ)を殺害しました。また、本来は天皇が授けるべき大臣(おおおおみ)の証である紫冠(むらさきのこうぶり)を、自らの手で入鹿に与えました。そのほか、蝦夷は蘇我氏の祖廟を葛城の高宮に建設し、中国では天子にしか舞うことを許されていない八佾(やつら)の舞を行ないました。

さらに、諸国の民に自分たちの墓をつくらせて「大陵(おおみささぎ)」「小陵(こみささぎ)」と呼ばせたり、自分の屋敷を「上(うえ)の宮門(みかど)」、子どもを「王子(みこ)」と呼んだりしています。こうした呼弥は天皇にしか許されないもので、明らかな越権行為といえるのです。

入鹿も負けていません。643年、蘇我氏の血を引く古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)を擁立しようと目論み、邪魔な山背大兄王を自害に追い込んだばかりか、山背大兄王以外の聖徳太子の一族も根絶やしにしました。ここに蘇我氏の専横は頂点に達したのです。

蘇我馬子の墓:石舞台(いしぶたい)古墳奈良県明日香村

この1辺約54mもある方墳は、蘇我氏繁栄の礎を築いた蘇我馬子の墓といわれています。蘇我馬子が亡くなった7世紀はじめから前半にかけて、7つの小古墳の上に築造されました。新たな古墳を築くために既存の古墳を破壊するという築造方法から、相当な権力者であったことがうかがえます。現在は上部の盛り土がきれいになくなっており、巨石で築かれた横穴式石室が露出しているため、このように呼ばれています。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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