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福岡の相島~猫島はかつては国際交流の最先端だった?~ 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月22日

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福岡の相島~猫島はかつては国際交流の最先端だった?~

新宮港から渡船で20分。たくさんの猫が歓迎してくれる癒しの島は、外交が禁じられた時代に朝鮮文化と直にふれあえる貴重な交流の地でした。

福岡の相島は朝鮮の使節団をもてなす重要な役目を果たしていた

世界各地の猫好きが訪れる島、相島(あいのしま)。最近では、島の形がハートに見えることから、若い人から「愛の島」ともいわれ、島の食堂にハートの形をした「ラブ・コロッケ定食」も登場するなど何かと話題を振りまいています。

そんなユニークな相島が、実は鎖国時代に朝鮮からやってくる使節団「朝鮮通信使」をもてなす、重要な役目を担っていたことをご存知でしょうか。
江戸時代、将軍代替わりの祝賀のため、朝鮮から国書を持った通信使が江戸へ途上する際に立ち寄った要所のひとつがここ相島なのです。使節団は慶長12(1607)~文化8(1811)年の間に12回来日し、正使、副使ら三使を筆頭に300~500人で構成されていました。相島へはそのうち11回立ち寄った記録が残っており、福岡藩は総力を挙げて饗応しました。「おもてなし」の元祖ともいえるこの接待はやがて藩の財政を危うくしますが、学者や文人を通しての詩文唱和の交流で鎖国時代ながら、藩の学問レベルは飛躍的に上がったのです。

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福岡の相島に残る当時の遺構①:前波止

天和2(1682)年の第7次通信使来聘(らいへい)時、財政が厳しいにもかかわらず、朝鮮人専用の先波止(さきしむと)、対馬藩・黒田藩上陸用の前波止(まえはと)を造設するため3850名を投じ、わずか2か月で完成、幕府に最大の忠誠心を披露しました。その時に造られた前波止は、現在も渡船の船着き場として使用され、2つの波止とも町の文化財に認定されています。

福岡の相島に残る当時の遺構②:供養塔

第9次通信使の迎護準備中だった享保4(1719)年、大風で40艘余が破船、大勢が溺死するという災害が起こるも、被害の詳細は不明でした。島の東部に位置する百合越浜には昔から石碑が立っていましたが、文字も風化し何を意味するのか分かっていなかったため、2010年10月、相島歴史の会によって石碑の拓本採りが行われました。するとこれまで謎とされてきた石碑は災害の供養塔であることが判明。さらに、島の神宮寺に溺死した人々の遺物、黒田藩主から賜った61名の合同位牌、心行三昧と書した扁額など多数の遺産が次々と発見されました。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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