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福岡の6つの街道と宿場町の今~江戸と九州を結ぶいくつもの街道は北九州の常盤橋から始まっていた! 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日:2022年3月3日

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福岡の6つの街道と宿場町の今~江戸と九州を結ぶいくつもの街道は北九州の常盤橋から始まっていた!

江戸と九州各地を結ぶいくつもの街道が北九州にある常盤橋から始まっていました。シュガーロードと呼ばれた長崎街道、旅人をもてなした宿場の今は… ?

【福岡の街道と宿場町】九州の街道の起点は常盤橋

江戸時代、紫川(むらさきがわ)の河口に位置した豊前国小倉は、中世以来小倉津とも呼ばれ、関門海峡を挟んで赤間が関(下関)に相対し、本州から見て九州の玄関口ともいえる場所でした。城下の紫川にかかる常盤橋からは、九州の街道の起点として、秋月街道、長崎街道、唐津街道、中津街道、門司往還など各地をつなぐ街道が放射状に発せられていました。このため、常盤橋周辺の町家は、九州の諸大名の宿舎ともなり、室町の村屋は熊本の細川氏、薩摩の島津氏、常盤橋東橋本の鍋屋は肥前の鍋島氏、筑前の黒田氏などの定宿となっていました。

【福岡の街道と宿場町】往来盛んだった長崎街道と筑前六宿

小倉城下より発する街道のうち、もっとも交通量が多く、九州交通の幹線とされたのは、江戸と長崎を結んでいた長崎街道でした。当時、唯一の海外貿易の窓口であった長崎からは、砂糖や生糸、薬品などの貿易品のほか、海外の情報がこの街道を通って江戸に向かい、現在ではシュガーロードの愛称で知られています。

また、長崎街道の中でも特に筑前福岡藩領部分は、黒崎・木屋瀬(こやのせ)・飯塚・内野・山家(やまえ)・原田の六宿から筑前六宿と呼ばれ、長崎奉行を筆頭に、長崎警備の福岡・佐賀両藩ほか、熊本、鹿児島、大分の日田方面の大名、郡代その他幕府役人が毎年、定期的に往来し、一般の旅人や商人の通行と相まって、かなりの交通量がありました。

筑前六宿の開通により主要幹線は秋月街道から長崎街道へ

江戸時代前期の九州の諸大名の参勤交代コースを見ると、圧倒的に海路が優先で、陸路はわずかでした。しかし、中期頃になると、幕府の奨励などから内陸部の街道が多く利用され始めます。
その頃の主要な幹線は、内陸を通る秋月街道であり、それを補うように唐津街道が沿岸部を通っていました。秋月街道は、小倉城下を出て金辺峠(きべとうげ)を越え香春(かわら)を通り、大隈から古処山(こしょさん)の西を越え、秋月城下に至り、さらに進んで田代から佐賀城下へ至る街道です。しかし、慶長16(1611)年に山家宿が創設され、翌17年には内野宿、そして、その年に両宿の間にある冷水峠(ひやみずとうげ)の開削が行われて筑前六宿が開通すると、筑前領内では、主要幹線が秋月街道から長崎街道に取って代わることになったのです。

筑前福岡藩を通った街道と宿場町

長崎街道は九州で唯一の脇街道で、57里(約228km)の間に25か所の宿場があり、このうち福岡藩内の黒崎・木屋瀬(現在の八幡西区内)、飯塚・内野(飯塚市内)、山家・原田(筑紫野市内)の各宿は、筑前六宿と呼ばれ、にぎわいをみせていました。秋月街道は筑後から豊前を結ぶ道で、途中には松崎、秋月、大隈、香春などの宿場がありました。
また、古長崎街道・古薩摩街道として小倉と九州南部や西部とを結ぶ道でもあったのです。主に福岡藩、唐津藩の参勤交代の道として使われた唐津街道。門司往還は小倉の常盤橋を出て、門司口門(小倉北区砂津川河口)を経て、赤間関への渡海地である大里宿までの短い区間指します。眺望絶景の街道であったため、古来歌集、句集、紀行文に多く詠まれています。

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【福岡の街道】唐津街道

長崎街道の木屋瀬から西へ折れて遠賀川を渡り、赤間に出て、畦町(あぜまち)・青柳・箱崎・博多を通って福岡城下に出るのが唐津街道です。幹線である長崎街道が本宿通りと呼ばれたのに対して内宿通りとも呼ばれました
初期の頃は、小倉から若松に渡り、芦屋を経て赤間に継いでいました。福岡より西は、姪浜・今宿・前原(まえばる)と継ぎ、前原より西は唐津領(後に中津領)深江・浜崎を経て唐津城下へ至ります。この道の歴史を遡るならば魏志倭人伝に記される大陸からの使者が訪れたルートや、大宰府と九州各地方を結ぶ古代官道、中世には国人領主らが軍需物資や兵の移動に使った道、さらには、豊臣秀吉が九州征伐や朝鮮出兵の通路として利用した道などが、おおよそその前身と考えられます。

唐津街道を利用していた藩主

唐津街道を多く利用したのは、福岡藩主と唐津藩主で、福岡藩主が参勤で江戸へ出発する際は、福岡城を出て博多を通り、石堂川を渡って筥崎宮までをきらびやかな行列で進み、家老以下主な家臣やお目見えを許された商人、町人などが黒田家の菩提寺でもある崇福寺より筥崎宮まで続く松原に並び藩主をお見送りしました。藩主は筥崎宮に参詣して道中祈願を行ったあと、すぐそばの箱崎浜にある箱崎御茶屋で旅装に着替え江戸へ向けて出発していました。

唐津街道:赤間通り

文政8(1825)年、薩摩藩主島津斉興(なりおき)は、江戸からの帰路をこれまでの長崎街道通行ではなく、唐津街道の赤間・青柳・箱崎を通り博多に出て二日市に回り、筑後松崎宿から薩摩街道に合流する内宿通りをとりました。薩摩ではこれを赤間通りと呼び、これ以降、久留米藩など近隣諸藩も真似するようになり、筑前六宿の宿場は大恐慌に陥るのでした。

【福岡の街道】日田街道

福岡・博多からも重要な道がありました。それは、福岡から東南に走り二日市から甘木を経て日田に至る日田街道です。日田は九州に所在する幕府直轄領の総元締め、西国郡代が陣屋を置いたところです。また、街道筋から少し逸れますが、日田街道に所属する宿場として宰府宿がありました。九州に旅する者は大名や庶民を問わず、必ず寄り道をして参詣する太宰府天満宮があったがために設置された特殊な宿場でした。
ほかにも、福岡・博多より金出(かないで)(篠栗(ささぐり))を経て飯塚に継ぎ、さらに大隈に継ぐ篠栗街道や、福岡城下を東西に通る唐津街道の藤崎から南へ分かれ、脊振山地の三瀬峠を越えて佐賀城下へ至る三瀬街道などがありました。

【福岡の宿場町】福岡藩内にあった宿場の当時の様子

福岡藩内には、筑前六宿を含め27の宿場がありました。博多の町人奥村玉蘭が文政期に描いた『筑前名所図会』には、当時の宿場の風景がいくつも描かれており、宿場の出入り口には搆口(かまえぐち)と呼ぶ石垣に土塀を築いた門構えに両端を仕切られた町の形や、宿場内の主な建物の様子がうかがえます。荷物輸送の事務を執る人馬継所(問屋場)、藩からのお触れや宿場間の距離や賃銭が書かれた制札場、藩主の別邸としての御茶屋、半官半民の町茶屋代官所、郡内の村役人の集会所としての郡屋、それに国境の宿(黒崎・原田・前原)には旅人の持つ通行手形を改める関番所などが置かれていました。

【福岡の街道と宿場町】往時を偲ばせる江戸時代の道が現存

現代と違って、当時の道路は幕府と大名のためのものでした。幕府役人には、一年交代で勤務する長崎奉行と日田郡代その他があり、大名は薩摩の島津氏を筆頭に、九州全土で35の大名がおり、一年は在国、一年は江戸への参勤交代と、慌ただしい一年を繰り返していたのです。この幕府役人と大名の参勤交代のために整備されたものが、江戸時代の街道と宿駅でした。

もっとも交通量の多かった長崎街道筑前六宿の現在は、ほとんどが整備され国道や県道になっていますが、難所といわれた冷水峠、太宰府へと続く内野宿は江戸時代の道がそのまま残り、歴史を感じる貴重な場所です。

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