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秋田城の元となる城柵の設置

法制度を整えるいっぽうで、支配領域をさらに広めていくために、蝦夷対策にも力を注ぎました。蝦夷とは中央府に服属しない人々や地域のことを指します。

中央府は征夷政策を推し進め、その前線となる場所に柵(城柵)を築きました。柵は防衛施設であるとともに行政施設でもあり、その地方を統治する拠点でありました。いわば蝦夷との国境ともいえ、柵の置かれた位置を見ると、律令国家の支配領域がどのように広がっていったのかがわかります。

647(大化3)年には、現在の新潟県新潟市東区あたりに渟足柵(ぬたりのさく)がつくられ、翌648(大化4)年には磐舟(いわふね)柵(新潟県村上市)が設けられ、さらに658(斉明天皇4)年には都岐沙羅(つきさら)柵が築かれました。都岐沙羅柵の所在地は山形県鶴岡市あたりと推測されており、時代を経るごとに城柵の位置(=蝦夷との国境)が徐々に北上していったことがわかるでしょう。

秋田城の元となる城柵の設置
『図説 秋田県の歴史』(河出書房新社、1987年)を元に作成

東北地方の日本海側には出羽国、太平洋側には陸奥国が置かれ、各地に対蝦夷の前線拠点となる柵が築かれました。

「アキタ」は元は蝦夷の領地だった

同年4月、越国守の阿倍比羅夫(あべのひらふ)は朝廷からの命を受け、水軍180艘を率いて日本海から蝦夷へと遠征しました。このとき阿倍比羅夫は齶田(あぎた)と渟代(ぬしろ)の2郡の蝦夷を制圧し、降伏した族長の恩荷(おが)に小乙上(しょうおつじょう)の位を授けたと『日本書紀』にあります。この「齶田」が、史書における「アキタ」の地名の初出とされています。

秋田城は蝦夷を抑えるための要所となった

708(和銅元)年に越後国内に出羽郡が設置されると、庄内地方には出羽柵が築かれました。やがて712(和銅5)年に出羽国が設置され、国府が庄内地方に置かれると、733(天平5)年には出羽柵が秋田村高清水岡(たかしみずのおか)(秋田市)に移設されます。

この出羽柵が760(天平宝字4)年頃に秋田城と改称されます。

秋田城の全体図

秋田城の全体図
秋田市のHPなど各種資料を元に作成

二重構造になっており、内側の区画には秋田城の中枢部である政庁があり、外側の区画(外郭線)には四方に門があったとされています。

秋田城跡史跡公園

住所
秋田県秋田市寺内大畑地内
交通
JR秋田駅から秋田中央交通将軍野線または寺内経由土崎線秋田厚生医療センター前行きバスで20分、秋田城跡歴史資料館前下車、徒歩3分
料金
情報なし

秋田城と俘囚による反乱

律令政府に服属した蝦夷は俘囚(ふしゅう)と呼ばれ、8世紀後半頃から出羽国でも俘囚(夷俘(いふ))が反乱を起こすようになります。

その最大規模のものが878(元慶2)年に起きた元慶の乱です。朝廷の苛政に耐えかねて蜂起した俘囚たちは秋田城を襲い、出羽守・藤原興世(おきよ)は逃亡してしまいました。

朝廷は藤原保則(やすのり)に俘囚討伐を命じますが、藤原保則は武力に頼らず、寛大な政策で反乱俘囚の投降を受け入れ、乱を鎮撫しました。なお、乱後に秋田城は藤原保則の手によって再建されるのでした。

俘囚の乱はこれ以降も起きており、939(天慶2)年にも秋田城軍と反乱俘囚が軍事的衝突をしたとされます(天慶の乱)

このように古代から平安時代にかけての秋田県域は、つねに蝦夷との衝突の絶えない緊張状態にあったのです。

国指定史跡の払田柵跡とは?

仙北平野の払田柵(ほったのさく)跡(大仙市・美郷町)は、9世紀初頭に創建された城柵の遺跡です。文献史料に名が残っていないため、当時どのような名称で呼ばれていたかも不明な謎多き「幻の城柵」ですが、敷地面積は広大で、多賀城(宮城県多賀城市)や秋田城と並ぶ東北地方最大規模を誇ります。

本遺跡から出土した木片には文字が書かれていて、中国・敦煌(とんこう)で出土した木簡とも似ており、日本における木簡研究におおいに役立てられたとされています。

国指定史跡 払田柵跡

住所
秋田県大仙市払田仲谷地95
交通
JR秋田新幹線大曲駅からタクシーで15分
料金
無料

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・地下にかつての雄物川の流路!? 秋田平野が形成の驚きのしくみ
・黒川や雄物川流域に油田続々!秋田ではどうして油が採れる!?
・ブナ林が発達し海成段丘が縁取る 起伏が激しい白神山地の形成史
・美しき田園・象潟の九十九島は鳥海山の山体崩壊でできた
・大館・鷹巣・鹿角盆地と能代平野 米代川流域に形成された地形の謎

Part.2 秋田を駆ける充実の交通網

・全国2番目のミニ新幹線、E6系「こまち」が走る秋田新幹線
・一部レール幅を変えて新幹線もいく!福島~青森を結ぶ幹線・奥羽本線
・新津~秋田を結ぶ日本海側の動脈 寝台特急「日本海」も走った羽越本線
・米代川に沿って走る本州横断線 スイッチバックも見事な花輪線
・東能代~川部を結ぶ絶景ローカル線 「リゾートしらかみ」が走る五能線
・鷹巣と角館を結ぶ旧国鉄角館線 秋田内陸縦貫鉄道は見どころ満載!
・釜石~横手~本荘を結ぶ大計画も!? 由利高原鉄道鳥海山ろく線がすごい
・小坂鉱山の鉱石輸送のため開業 旅客輸送も担った幻の小坂鉄道/昭和40年代に消えたローカル私鉄 羽後交通の雄勝線・横荘線とは?

Part.3 秋田の歴史を深読み!

・秋田の古代史総論
・大型住居跡やストーン・サークルなど秋田県の縄文遺跡がおもしろい!
・出羽柵が遷置・整備されて秋田城と呼ばれるようになった
・奥羽を支配した出羽の豪族・清原氏が後三年の役により滅亡
・秋田の中世史総論
・八郎潟東岸を拠点とする大河兼任が鎌倉幕府に対して反乱を起こす
・秋田の近世史総論
・佐竹氏の入部以降、鉱山開発が進み鉱業が秋田藩の財政を支えた
・古来より栄えていた舟運に加え街道が整備され交易が盛んに!
・近現代史総論/奥羽越列藩同盟を離脱し新政府側へ 秋田藩の戊辰戦争と戦後のゆくえ
・日本最後の空襲となった土崎空襲 どうして土崎港が狙われたのか?

Part.4 秋田で育まれた産業や文化

・全国屈指の産油量だった秋田県がシェールオイルの開発・商業生産へ
・秋田港、船川港、能代港 三つの重要港湾が海上輸送網の拠点
・国内有数の米どころ・秋田県は農業産出額の5割以上を米が占める
・かつては国内2位の広さを誇る湖!? 八郎潟の干拓と大潟村の歴史
・古来より建材や工芸品に用いられた秋田杉の活用と保存の取り組み
・日本のロケット発祥の地は秋田県の道川海岸だった!
・地熱発電や風力発電などの再生可能エネルギーの導入が加速
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