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山内一豊は土佐藩の基礎をいかにして築いたのか~広大な地域を治めた手腕とは? 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月13日

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山内一豊は土佐藩の基礎をいかにして築いたのか~広大な地域を治めた手腕とは?

掛川(かけがわ)5万9000石の領主だった山内一豊(やまうちかつとよ)は、関ヶ原(せきがはら)の合戦後領地を加増され、土佐(とさ)一国を与えられます。広い土佐を、どのように支配したのでしょうか?

山内一豊入国以前に地元勢力から抵抗を受ける

1600(慶長5)年11月、山内一豊は新しく土佐一国を与えられます。まずは弟の山内康豊(やすとよ)が入国し、山内家に不安や不満を持って山中に逃げ込んだ農民や一領具足たちに、長宗我部(ちょうそかべ)時代の政策を引き継ぐことを表明。抵抗する勢力へは強い姿勢で臨んでいました。山内康豊は長宗我部盛親(もりちか)が居城としていた浦戸城(うらどじょう)を、抵抗を受けながらも無事接収。1601(慶長6)年1月に、山内一豊が入城しました。

山内一豊は土佐入りの際に家臣団を強化

当時の大坂では、関ヶ原の合戦によって主家が改易され、浪人となった武士が再就職先を探していました。山内一豊は尾張(おわり)・掛川時代からの家臣に加え、元織田家の家臣で土木技術に優れた百々越前安行(どどえちぜんやすゆき)など優れた人材を大坂で召し抱え、200名近い家臣団を従えて土佐に入っています

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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