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治水対策の歴史:天竜川(静岡県)

急峻(きゅうしゅん)で流れの早い天竜川は、古来から周辺に大きな水害を引き起こし“暴れ天竜”と呼ばれていました。江戸時代になると築堤(ちくてい)が進んで河道が固定されるようになりましたが、それでも破堤(はてい)による氾濫が幾度も起こっています。1850(嘉永3)年から1868(明治元)年にかけては、大規模な決壊が5回も起こっており、当時19歳だった金原明善が暮らしていた安間村(あんまむら)を一瞬にして沈めてしまいました。

天竜川のおもな治水工事:明治期の実業家による大規模な植林

実業家・金原明善は明治政府に治水工事の費用負担を直訴し、さらに自らの全財産も投げ売って堤防を築いたといいます。堤防による治水が軌道に乗ると、今度は天竜川流域の山間部の植林事業に乗りだしました。

当時、天竜川の山間部は荒れていて大雨が降ると大量の水と土砂が一気に川に流れてしまう状態でした。金原明善は治水を目的に1885(明治18)年から植林を始め、上流の官有地759haに292万本のスギ、ヒノキの苗木を自らの費用で植樹。次いで1200haの植栽を行いました。これが後の天竜材となり、日本有数の林業発展の礎となったのです。

天竜川の治水工事についての詳しくはこちらの記事へ

治水対策の歴史:由良川(京都府)

京都府・滋賀県・福井県の3府県境にまたがる三国岳。ここを水源とする一級河川が由良川です流域面積は京都府の約40%を占めます。この由良川は昔から中流部の流域、とりわけ福知山盆地に広がる地域でたびたび甚大な水害をもたらしています

由良川のおもな治水工事:明智光秀による治水工事

そんな水害多発地域で、約440年前に大規模な治水事業に挑んだ戦国武将がいました。1579年に丹波を平定した明智光秀です。明智光秀は戦略上の要衝を押さえるため、福知山城を築きます。ところが、福知山城下は由良川と土師川(はぜかわ)が合流する地点で、たびたび氾濫していました。明智光秀は城下町を整備するにあたり、まず由良川の川ざらえと川筋の拡張を家臣に命じました。

さらに、福知山城に向かって流れる由良川に長さ約500mほどの堤を築き、川筋をほぼ直角に曲がるよう付け替えました。その堤には濁流の衝撃をやわらげる藪を設けたと伝えられています。水害対策を講じた明智光秀に敬意をこめて、この藪は「明智藪(あけちやぶ)」と呼ばれました。

これからの治水対策:水害が多発し現在でも課題が残る

光秀の治水事業があっても川の氾濫は収まらず、福知山市では、1900年初頭から今日まで約110年間に最高水位5m超の洪水が17回も発生。

氾濫が多発する理由は、川幅が狭く、勾配が緩いという福知山盆地特有の地形にあります。河口から約40㎞上流にあるにもかかわらず、福知山市の音無瀬橋(おとなせばし)の海抜は10mしかありません。上流からの水はこの流域で滞留しやすく、大雨になると堤防が決壊したのです。同市では2014年8月にも集中豪雨により大規模な浸水被害が発生しており、現在もなお水害対策が地域の大きな課題となっています。

治水対策の歴史:淀川(大阪府)

古来、淀川は内陸部にある都と瀬戸内海を結ぶ交通路として活用されてきました。とくに都が京に移されてからは、大坂から京へ運ぶ唯一の航路として重要視されます。江戸時代初期には、大坂と伏見をつなぐ旅客専用の三十石船(さんじっこくぶね)が登場。最盛期には上りと下りを合わせて1日320便、およそ9000人が往来しました。

淀川のおもな治水工事①:古来より盛んに行われてきた改修

明治時代に入ると蒸気機関を備えた外輪船が導入されるも、淀川の水深は浅く、蒸気船が航行できません。そこで「粗朶沈床工法(そだちんしょうこうほう)」で河川中央の流れを速くし、土砂をたまりにくくして水深を保つことを可能にしたのです。

暮らしに役立ついっぽうで、淀川は洪水で人を悩ませています。淀川における治水の歴史は古く、古代の「茨田堤(まんだのつつみ)」にはじまり、1594年には豊臣秀吉が宇治川の付け替え工事を行い総延長約12㎞の「太閤堤(たいこうつつみ)」を築造。同じころ、淀川左岸に枚方から長柄(ながら)(現・大阪市北区内)に至る全長約27㎞の「文禄堤(ぶんろくつつみ)」を築きます。

1684年には幕府が河村瑞賢(かわむらずいけん)に命じて淀川の改修に着手。淀川の河口にあった九条島(くじょうじま)を開削して安治川(あじがわ)をつくり、流れを直線的にして氾濫を減少させました。

淀川のおもな治水工事②:明治期の淀川改良工事

しかし1885年、発達した低気圧の来襲で未曾有の大洪水が発生し淀川の堤防は次々に決壊。被災人口約30万人という甚大な被害となります。この水害をきっかけに淀川改修の気運が高まり、1896年から1910年にかけて大規模な改良(治水)工事が実施されました。

工事前の淀川は川幅が狭くて蛇行しており、しかも河口は大川(おおかわ)、中津川(なかつがわ)、神崎川に分流していました。そこで、都心部を離れた北側に放水路を開削。こうして整備された守口から大阪湾まで約16kmの新しい川が、現在の淀川(通称「新淀川」)なのです。

治水対策の歴史:吉野川(徳島県、香川県、愛媛県、高知県)

四国4県の、水に関する課題は両極端でした。水不足が広い範囲で慢性的に発生していたのは香川県。愛媛県四国中央市(しこくちゅうおうし)、高知市を中心とした地域も水不足に悩まされてきました。逆に洪水被害にたびたび襲われていたのが吉野川流域の大半を抱える徳島県です。また徳島県では上水道や農業・工業用水が確保しにくい地域もありました。

吉野川のおもな治水工事:早明浦ダム建設

こうした課題を解決しながら電力不足も補うため国が昭和20年代から練ってきたのが1966(昭和41)年策定の「吉野川総合開発計画」です。四国最大の早明浦ダムを中核に、同じ吉野川水系にさらに富郷(とみさと)、新宮(しんぐう)、池田(いけだ)のダム3基を建設し、香川用水、高知分水、最下流部の徳島県の河口堰2基などの水資源開発施設を順次完成させ、吉野川を総合的に制御しようとする国家的事業です。

早明浦ダムのダムサイトは四国のほぼ真ん中、長岡郡本山町(ながおかぐんもとやまちょう)と土佐郡土佐町(とさぐんとさちょう)にまたがります。1967(昭和42)年から水資源開発公団(現在の独立行政法人水資源機構)が建設を担当し、1975(昭和50)年までに完成しますが水没家屋が多数に上り激しい反対運動がありました。

吉野川のおもな治水工事②:早明浦ダム再生事業が進行中

完成から半世紀近くが経過した早明浦ダムは現在、2028(令和10)年度まで11カ年の予定で行われる再生事業のさなかにあります。

近年の記録的豪雨の頻発に対応するのが目的です。予備放流方式は大雨が予想される時にあらかじめ水を放流しておき洪水調節に備えるためで新たに導入します。早明浦ダムの場合、大雨などで1秒間に4700㎥以上の流入がありダムに洪水をため込むことができなくなった場合に、2000㎥以上となる緊急放流相当の洪水調節を過去2度実施しています。再生事業では堤体の現在のゲートより低い場所に放流設備を増設することで、貯水位を下げて予備放流に対応しながらも放流量を減らさずに大雨への備えを可能にします

吉野川の治水工事についての詳しくはこちらの記事へ

治水対策の歴史:筑後川(福岡県)

九州一の大河である筑後川は、阿蘇外輪山を水源に九州北部を西に流れ有明海に至ります
筑後川は別名「筑紫次郎」と呼ばれ、関東の「坂東太郎」(利根川)、四国の「四国三郎」(吉野川)と並ぶ日本三大暴れ川です。室町時代からの記録によるとおよそ300年の間に160回以上、実に2年に一度以上のペースで氾濫が起こり、流域に住む住人は常に洪水との戦いでした。こう述べると、災害のないときは水が豊かな土地であるように思えますが、筑後川沿いの多くは土地の方が高く畑に水を引くことができず、大豆や粟、稗(ひえ)しか育たないような荒れ地だったのです。

17世紀後半から18世紀にかけ、流域住民は筑後川の水を利用して新田開発を行い、暮らしを豊かにしようと考え、筑後川四大堰を相次いで建設しました。そのうちのひとつが、5人の庄屋によって造られた恵利(えり)堰です(床島堰、佐田堰と合わせて床島堰と総称することもある)。

筑後川のおもな治水工事:筑後川四大堰

宝永7(1710)年、鏡村の庄屋であった高山六右衛門、八重亀村の秋山新左衛門、高島村の鹿毛甚右衛門、稲数村の中垣清右衛門ら4人は、川幅や流れの速さなどの測量を行い、恵利堰工事の請願書を久留米藩に提出しました。
当時の藩主有馬則維(のりふさ)は直ちに着工するよう命じ、総監督として草野又六を送ったものの、上流の福岡藩の猛反発により計画は立ち消えとなってしまいます。
ところが、堰の建設で利益を得ないにもかかわらず、早田村の庄屋丸林善左衛門が公益のためと3か月にも及ぶ監禁、拷問の末、福岡藩の住民の説得に成功し、正徳2(1712)年、ついに恵利堰は完成しました。

彼らの行動は、現在に至るまで地域の農業に多大な恩恵を与え、地元小学校では校歌に「五庄屋」が歌われているほどです。そのほかの3堰にも地元の庄屋が深く関わっており、筑後川四大堰は全国でも稀な庄屋主導で行われた利水事業なのです。

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