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治水対策の歴史:北上川(岩手県、宮城県)

北上川は、岩手県岩手町を原流に、宮城を南北に流れ、追波湾(おっぱわん)に注ぐ大河。流域の東には北上山地、西には奥羽山脈があり、双方の山地から流れ込む大小216本の支流をもちます。北上川の流域面積は、岩手県側では岩手県土の約5割、宮城県側では宮城県土の約4割にまで及びます。この広大な流域を活かし、北上川は古代から水上交通網としての役割を果たしてきました。

この地を手に入れた伊達政宗は、北上川の整備によって、新田開発と物資輸送ルートの確保を同時に行うことを考えました。以後300年間続いた北上川改修の治水大事業が始まりました。

北上川のおもな治水事業①:江戸時代の「相模土手」築造と川幅拡大工事

初め、北上川の流路には二股川が流れていました。北上川や迫川の氾濫で登米の低地部は、常に水害に見舞われていました。そこで、政宗に改修を命じられた、登米城主・伊達相模宗直(だてさがみむねなお)は「相模土手」と呼ばれる堤防を築いて北上川の迫川方面への流れをせき止め、二股川に合流させて流路を一本化しました。この工事は、1605(慶長10)年から5年間に及びました。

舟運を行いやすくするには、さらに流路を整理し、川幅を広げる必要がありました。ここで、長州出身の技術者・川村孫兵衛(かわむらまごべえ)が登場します。1616(元和2)年から1626(寛永3)年にかけて、孫兵衛は北上川・迫川・江合(えあい)川を和渕山(わぶちやま)と神取山(かんどりやま)の間で合流させる工事を行いました。これによって、上流まで舟で遡航することが可能になり、本格的な舟運が始まりました。

北上川のおもな治水事業②:明治期の洪水防止改修

一方で、狭い和渕の谷間に三川の水が集まるようになったため、上流側で氾濫が起こりやすくなっていました。これは明治期に入ってからも長らくそのままでしたが、1910(明治43)年の大洪水をきっかけに、洪水防止を目的とする改修が始まりました。新河道の開削や追波川の拡幅が行われ、現在の北上川と旧北上川の形ができあがったのです。

北上川の幻の治水事業:巨大運河ネットワーク構想

明治時代、宮城の野蒜に近代的な港の建設が計画されました。江戸時代から進められていた運河の建設と組み合わせ、巨大な水上交通網ができるはずでした。野蒜は石巻と塩竈の間にあり、各港を運河でつなぐことで巨大な水運ネットワークをつくるという構想だったのです。

すでに江戸時代から、河川を舟運路として開発するだけでなく、各河川を横につなぐ運河が造られていました。伊達政宗が晩年に命じたもので、松島湾と阿武隈川を結ぶ計画です。江戸時代から実際に運河が造られ、明治期にも建設されていましたが、野蒜の外港建設中の1884(明治17)年に台風が到来。防波堤が破壊されて船が入れなくなり、あっけなく野蒜築港計画は中止されてしまいました。

治水対策の歴史:最上川(山形県)

最上川は国内有数の暴れ川でもあります。日本三大急流のひとつに数えられるほど流れが速い要因は、川底の花崗岩が水をせきとめるような形になっていることに加え、河道が蛇行していたり、川幅が狭い箇所が多いことにあります。

現在も最上川流域では、局地的豪雨によって洪水が発生することがありますが、江戸時代にはじつに7年に1回の割合で大洪水が発生していたといいます。洪水は人々の生活や経済活動に大きな打撃を与えます。そのため、最上川流域では古くからさまざまな対策が行われてきました。

最上川のおもな治水工事①:江戸時代、直江兼続による堤防建設

米沢に入封した上杉景勝(かげかつ)の家臣である直江兼続(なおえかねつぐ)は、米沢藩の家老在任中、城下を守るため、最上川上流に大規模な堤防を築きました

最上川のおもな治水工事②:明治期の新川掘削や分離工事

1884(明治17)年、国の主導による改修工事の実施が決定。工事監督として、内務省技師で河川改良技術のスペシャリストでもあった石井虎治郎(とらじろう)が派遣されました。石井は「木工沈床法」という技法を用い、18年もの年月をかけ、酒田港の船着場につながる河口に導水堤を築きました

さらに酒田では、明治後期から昭和初期にかけ、経済復興と洪水対策を兼ねて、酒田港と最上川の分離工事も行っています。最上川の土砂がたまり水深が浅くなっていた酒田港は、大型船舶が停泊できず機能が低下していました。そこで「背割堤(せわりてい)」を築き、港と川を分離させたのでした。

治水対策の歴史:阿武隈川(福島県)

福島県の阿武隈川は、長さ239㎞の一級河川でその流域面積は約5400㎢。白河市、郡山市、二本松市、福島市、角田(かくだ)市、岩沼市などの主要都市を結んでおり、途中、郡山~本宮間、二本松~福島間(阿武隈峡)、福島・宮城県境付近(阿武隈渓谷)の3カ所には狭窄(きょうさく)部があります。

阿武隈川のおもな治水工事①:江戸商人による舟運路確保のための改修

阿武隈川は、平安時代には「あふくまがわ」として歌枕に使われ、古くから人々に親しまれてきた河川でした。また、比較的流れの穏やかな部分では舟運が発達し、板倉藩が年貢米を江戸に運ぶ手段として使ったのです。

1664(寛文4)年に江戸商人の渡辺友以(わたなべともい)が福島城下近くから水沢(みずさわ)・沼ノ上(ぬまのうえ)(現在の宮城県丸森町)までの河川改修、その後、より早く確実なルートを開発するため、1670 (寛文10)年に江戸商人の河村瑞賢は、阿武隈川の現地調査や開削を行い、舟運路を整えました。阿武隈川には川幅が狭く流れが急な箇所が多く、川底の改修など工夫が凝らされました。

阿武隈川のおもな治水工事②:明治期以降の改修

明治時代になると河川工事にオランダ技術が取り入れられ、阿武隈川では1884(明治17)年から1902(明治35)年にかけて、宮城県丸森町(まるもりまち)から河口まで低水工事(川床の掘削や河岸改修など)が施されました。ただ、このときの工事は、どちらかといえば舟運のためのものでした。

洪水対策を念頭に置いた河川工事が始まったのは1919(大正8)年。築堤、河道掘削、護岸などのほか、郡山市内では川の流路を変える大がかりな工事も行われました。15カ年計画で行われた阿武隈川の大改修でしたが、その後も大洪水は相次ぎます。その都度治水計画は見直され、計画高水流量も増やされてきました。

昭和、平成に入ると、治水(洪水調節)と利水(発電など)を兼ねた多目的ダムとして、阿武隈水系には七ヶ宿ダム(白石川)、三春ダム(大滝根川)、摺上川ダム(摺上川)の3基が建設されました。

しかし、水害との戦いは今も続いています。記憶に新しいところでは、2019(令和元)年に東日本を襲った「令和元年東日本台風(台風19号)」があります。特別警報級の記録的大雨となり、流域全体に甚大な被害が出ました。阿武隈川の治水対策は、令和の今日においても大きな課題となっています。

治水対策の歴史:富士川(山梨県)

四方を高い山に囲まれ、河川の数が多い山梨県にとって、古くから水害は「宿命」でした。川の氾濫により甲府盆地の家や田畑は流され、人々の生活は水害の不安と隣り合わせ。長年の課題解決に立ち上がったのが、武田信玄でした。1542(天文11)年に富士川の上流・釜無川と御勅使川(みだいがわ)が氾濫したことをきっかけに、治水工事を始めました。信玄は川が暴れそうな場所に、それぞれの地の利を生かした治水施設を置いたのです。

富士川のおもな治水事業:今も現役「西の信玄堤、東の万力林」

「信玄堤(しんげんづつみ)」とは、水の勢いを弱めるために川の流れを変え、次に川の中に石組みをつくったものです。そして、釜無川・御勅使川の合流地点の下流に、1800m以上にわたる堤防を築いたのです。

完成まで約20年。農民の生活を安定させた功績から「信玄堤」と名付けられました。400年以上経った今でも治水機能を果たしており、信玄の治水工法は日本の河川工学の祖となるほど優れたものなのです。

富士川最大の支流・笛吹川の右岸にある「万力林(まんりきばやし)」も、信玄がつくったと言われています。14万m²の敷地にアカマツが植えられ、間隔を取って不連続の堤防も築かれました。笛吹川が氾濫した際、密生している松の大木が流木や土砂の流入を防いで洪水を河道に戻し、水防の役割を果たします。当時の人々が「万人の力を合わせて堅固な堤防とする」という願いを込めて名付けました。

治水対策の歴史:千曲川(長野県)

日本最長の一級河川である全長367㎞ の信濃川のうち、長野県域部分を指す全長214㎞ の千曲川。

川幅が狭まる立ヶ花エリアは大雨が降ると水が溜まり、昔から水害の多発する地域でした。2019(令和元)年10月の台風19号の被害も記憶に新しく残ります。千曲川最大の水災とされる1742(寛保2)年8月の「戌(いぬ)の満水」では、千曲川と支流は大洪水となり、山崩れなども引き起こしました。多くの村が壊滅し、死者は2800人に及んでいます。明治に入ってからも水災が続き、1910(明治43)年8月の洪水を契機に本格的な治水対策を求める声が高まります。

千曲川のおもな治水工事:千曲川改修事業

1918(大正7)年、第1期千曲川改修事業がスタートし、旧堤(きゅうてい)が再築堤され、洪水調整に使われた不連続の霞堤(かすみてい)は連続堤防になったほか、多くの地区で旧堤の嵩上げや拡幅(かくふく)などを実施しました。支流が流入する地点では、逆流を防止する水門や樋門(ひもん)などの施設も整備されました。完成までには23年の歳月を費やし、総工費は約1000万円(当時)に及びますが、千曲川は上田~ 立ヶ花の57.5㎞ 、飯山~上境の10㎞ 、犀川は両郡橋(長野市)~千曲川合流点の10㎞ が堤防で結ばれ、現在の千曲川の基礎が固まりました。

1949(昭和24)年には第2期改修工事が始まり、1965(昭和40)年には新しい河川法の制定により、堤防や多目的ダムなど治水、利水のための基本施設の建設が進められることとなりますが、いずれも工事の途中で大洪水に見舞われ堤防決壊の被害に遭うなど、改修事業は困難を極めました

未だ水害への不安は残りますが、現在、千曲川流域の農家では水害の影響が少ない農作物の栽培に取り組み、中野市などは全国有数の果樹産地に成長しました。また、水力発電(水力発電量全国3位、2019年度)や川魚の養殖などにも活用され、千曲川と地域との共存も図られています。

治水対策の歴史:利根川(埼玉県、東京都、千葉県)

かつての利根川は東京湾へと注ぎ込んでいました。当時の利根川は氾濫することが多く、そのたびに関東平野を水浸しにしました。関東地方(坂東(ばんどう))随一の暴れ川であることから「坂東太郎」の異名をとったほどです。

江戸時代、関東に移封された徳川家康の頭を悩ませたのは利根川でした。江戸に安定した都市を築くには、この坂東太郎の治水が急務とされたのです。

利根川のおもな治水工事:家康による「利根川東遷」

家康による利根川東遷事業は、利根川の流れを関東平野の東端である千葉の銚子へと移し替える一大プロジェクトでした。工事を担当したのは、関東代官の伊奈忠次です。

1594年、新郷(埼玉県羽生市)で会の川を締め切った工事から開始されました。この事業で重要度の高かったのが赤堀川(茨城県古河市~猿島郡境町)の開削です。まずは1621年に新川通(埼玉県加須市佐波~久喜市栗橋地区)が開削され、次に赤堀川が開削され、そして1654年までかけて利根川本流が赤堀川を通って常陸川に流入するようになりました。かくして利根川は常陸川を通過し、銚子河口から太平洋へとつながったのです。

この事業は忠次1代では完遂せず、親子3代・60年かけて伊奈氏は従事することになりました。そして、伊奈氏の土木事業の方式は「伊奈流」と呼ばれ、幕府の治水事業のあたらしいスタンダードになります。

利根川の治水工事「東遷事業」についての詳しくはこちらの記事へ

治水対策の歴史:荒川(東京都)

荒川の現在は、埼玉県中央部から東京都市部を流れる約173kmの河川。下流部は現在の隅田川を流れていましたが、川幅が狭く、堤防も低かったので、何度も大雨や台風の洪水被害をもたらしていました。

荒川のおもな治水工事①:寛永6(1629)年の荒川西遷

荒川西遷とは、利根川水系と荒川水系を切り離す大規模な工事です。荒川の付け替えが行われたのは熊谷市久下(くげ)で、荒川は熊谷市久下で締め切って和田吉野川・市野川・入間川筋を本流にする川に変わりました。「荒ぶる川」の通り、熊谷市久下は荒川洪水の通り道になっていたのです。

これにより、埼玉県東部の新田開発や荒川を利用した舟運が進み、江戸への物資輸送が大幅に増加しました。一方で、和田吉野川・市野川の周辺では水害が増えることとなったのです。

荒川のおもな治水工事②:明治時代の荒川西遷

明治時代になっても荒川の氾濫は続きます。繰り返される洪水に対する根本からの対策として考案されたのが、荒川を分流する計画です。 荒川の流れを北区岩淵町で分流して東京湾まで流す荒川放水路を開削することが決定したのです。放水路の長さは約22kmに及び、住宅地や工場の移転を伴う大規模なものとなり、移転した家屋は1300戸に及びました。明治44(1911)年に着手、昭和5(1930)年に竣工しました。

荒川のこれからの治水対策:江東デルタ、大規模水害への課題

東京の東部低地帯は、荒川と隅田川に挟まれたいわゆる「江東デルタ」を中心に、海抜ゼロメートル地帯が広がり、水害リスクの高い地域として知られています。

古くから大規模な治水対策が進められる一方、この地域では産業用水の汲み上げや水溶性天然ガスの採取が盛んに行われるようになったのです。その結果、地盤沈下が発生し始め、昭和40年代まで年々進行し、その区域も拡大していきます。また、戦後復興で地盤沈下を考慮しない市街化と過密化も進行し、海抜ゼロメートル以下のエリアに広域な市街地が形成されました。

危機感を持った東京都は、地下水の揚水規制や天然ガス採取の停止などを実施。すると 昭和48(1973)年頃から地盤沈下は急速に減少し、現在ではほぼ停止しています。しかし、もっとも沈下した江東区南砂2丁目では、累計沈下量は約4.5mにも達しています。近年は地球温暖化の影響もあって大規模水害が各地で発生しており、東京においても水害対策が喫緊の課題となっています。

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