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奥羽山脈・笹谷街道(ささやかいどう)

奥羽山脈の笹谷峠(標高906m)を越えることが名の由来。笹谷峠付近は雪の深い難所で、歌枕の「有耶無耶(うやむや)の関」と推定されています。宮城側の起点は、奥州街道の宮宿と長町宿の2つあり、どちらも山形へ至ります。

宮宿から出る道は、永野(ながの)宿・猿鼻(さるはな)宿・四方(しほう)峠・川崎(かわさき)宿・今宿(いましゅく)宿・笹谷(ささや)宿・関沢(せきざわ)宿を通って山形に到着します。この道は平安時代に開かれており、源頼義と義家による安倍氏討伐戦である前九年の役や、源頼朝が奥州藤原氏を征伐した奥州合戦の舞台になっています。

長町宿発の道は、仙台城が築かれた後に整備された道です。鉤取(かぎとり)宿・茂庭(もにわ)宿・赤石(あかいし)宿・碁石(ごいし)宿・小野(おの)宿を経て、川崎宿で宮宿発の道と合流します。ちなみに川崎宿は、川崎伊達氏の居館がある館下町です。この道は、現在の国道286号とほぼ一致します。

奥州山脈・笹谷街道の紅花街道

このほかに、奥州街道の船迫宿を起点として、村田などを通って川崎で合流する道も笹谷街道に数えることがあります。この道は「紅花街道」とも呼ばれ、柴田・刈田地域で生産された紅花を、上方行きの西廻航路が発着する酒田へ送るための道でした。

紅花は、染料・薬・食紅などの原料で、非常に高く売れました。村田の市街地には土蔵造りの家が立ち並び、当時の繁栄ぶりがうかがえます。村田には、山形地方と同じ商家の間取りが見られたり、白鳥神社に山形県大石田町の漆喰鏝(こて)絵の技術が使われた絵馬が奉納されていたりと、紅花取引とともにさまざまな生活文化が伝播したようです。

江戸時代初期には出羽諸大名の参勤交代路として使われていましたが、奥州街道の桑折(こおり)(福島県)から分岐する山中七ヶ宿街道が改修されるとそちらが主な参勤交代路となりました。以降、笹谷街道では商業や出羽三山参詣のための通行が盛んになります。

奥羽山脈・二口街道(ふたぐちかいどう)

長町宿から出発して奥羽山脈二口峠で二手に分かれ、それぞれ山形の山寺村と高野村を通って、合流し山形へ向かいます。長町宿~北赤石宿までは笹谷街道と共通しています。

二口街道の歴史は古く、多賀国府から秋保温泉へ至る道として平安時代には存在していたようです。中世には、軍事的な要所として重視されました。

渓流沿いなので魚の鮮度を保つのに適しており、江戸時代には仙台方面から山形へマグロ・カツオ・タコなどが運ばれました。山形から仙台には、青苧(あおそ)(麻)や古着、雑貨などが送られたといいます。水に困らないため、出羽三山への参詣道としても多く利用されました。

奥羽山脈・関山街道(せきやまかいどう)

奥羽山脈関山峠を越え、天童を経由して仙台城下と羽州関山村(現在の山形県東根市)を結びます。広瀬川沿いを上って作並温泉を通るため、宮城県側の区間は作並街道とも呼ばれます。峠付近を除き、国道48号とほぼ重なります。

馬が通れない急峻な坂道だったため、笹谷街道・二口街道に比べてあまり利用されていませんでした。仙台城の搦手に至る軍事的に重要な道ですが、家臣団が配置されなかったのもそのためです。

奥羽山脈・軽井沢越最上街道(かるいざわごえもがみかいどう)

奥州街道の吉岡宿を起点に、小野田町を通って山形の尾花沢(おばなざわ)に至ります。「銀山越え」とも呼ばれます。

この道は、737(天平9)年に出羽国雄勝の蝦夷を征討した大野東人(おおののあずまひと)によって開かれたと伝わります。戦国時代に、尾花沢で銀山が発見されてから閉山までは、銀の搬出に使われました。

江戸時代には、主に出羽三山への参詣道として利用されました。途中には、仙北で大きな勢力を持っていた羽黒派修験の拠点もありました。参詣のほか、最上川舟運で尾花沢に運ばれた上方や松前の商品を仙台へ輸送するためにも使われました。

奥羽山脈・中山越出羽街道(なかやまごえでわかいどう)

軽井沢越最上街道と同様、奥州街道の吉岡宿から分岐します。大沓掛(おおくつかけ)宿で軽井沢越最上街道から分かれ、中新田(なかにいだ)宿や岩出山(いわでやま)宿、尿前(しとまえ)の関を通って出羽堺田(さかいだ)(現在の山形県最上町)に至ります。現在の国道457号・47号と重なる道です。

市場がある中新田、伊達政宗が住んだ岩出山を通るため、中世から重要な交通路でした。江戸時代には、最上川舟運経由の商品が多く運ばれました。

宮城・山形間の明治時代以降の新道開発

ここまで見てきたように、宮城・山形間には多数の街道が開かれました。しかし、これらの街道は狭く険しいため牛馬の通行が難しい、冬になると雪が積もるという欠点がありました。

明治時代初期には、こうした欠点を克服し、宮城・山形間の物資輸送をさらに活発にするために、地元の人々から新道開発の要望が盛んに出されました。新道開発といっても、まったく新しい道を開削するというよりは、既存の道の公道への格上げや再整備を求めるものが多かったようです。明治政府主導の開発が行われるのを待たずして、各地域で民間の資金 が集められ、自主的な開発が始まりました。

笹谷街道の「切抜」構想

笹谷街道では、1870(明治3)年に笹谷峠「切抜」構想が持ち上がりました。羽州関根村(現 在の山形市関沢)と奥州笹谷村(現在の宮城県川崎町)の間にトンネルを通し、所要時間を大幅に短縮する計画でした。結局このとき計画は実行されませんでしたが、1981(昭和56)年に開通した山形自動車道笹谷トンネルはこれとほぼ同じルートであり、時を経て構想が実現したともいえます。「切抜」構想は頓挫したものの、1895(明治28)年に街道が再整備 され、車馬が通れるようになっています。

二口街道の改修

二口街道では、1872(明治5)年に山寺村の住民たちから山形県に改修願が提出され、許可が下りました。これを受けて、宮城県士族の大竹徳治(とくじ)と仙台商人の若生儀兵衛も宮城県側の改修を申し出ました。塩竈を拠点に活動していた海運業者の白石広造(しらいしこうぞう)の資金援助もあり、改修工事は1873(明治6)年に完了しました。二口街道の改修では地元以外からの出資が多く、当時の有力者たちの間で殖産興業を狙った交通網整備への関心が高かったと考えられます。

奥羽山脈・関山街道を発展させた関山隧道

大きな変貌を遂げたのは関山街道です。山形県令・三島通庸(みしまみちつね)の指示により、「関山隧(ずい)道」と呼ばれるトンネルの開発が行われたのです。標高600m、長さ287mの関山隧道の工事は、火薬の爆発事故で多数の死傷者を出すなど難航しましたが、1880(明治13)年に着工し2年後に完成しました。

これによって馬車の通行が可能になり、交通量は飛躍的に増加しました。記録によると、1日1万貫の貨物、背負子 300人、人力車130台、荷馬車400台、郵便物郵送夫40人が通ったといいます。

関山隧道の開通で、民間で開発したほかの街道は廃れてしまいますが、1950年代まで林道として有効活用されました。

1901(明治34)年の奥羽本線開通、1937(昭和12)年の仙山線開通など、鉄道の普及によって関山隧道もいったんやや衰退しますが、自動車の登場によって再び交通量が増加し、拡幅工事が行われました。1968(昭和43)年には新関山トンネルが完成して関山隧道は役目を終えます。

関山隧道は「山形県の近代化産業遺跡群」の1つとして、経産省の認定する「近代化産業遺産群続33」に登録されています。

宮城・山形間を結ぶ鉄道と自動車道

宮城・山形間を結ぶ鉄道と自動車道

物流の主役は鉄道や自動車に移りました。旧街道のルートには、自動車道と一致する部分が多くあります。

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