フリーワード検索

ジャンルから探す

トップ > カルチャー > 

足利義満は武家と公家両方の頂点に立ち、室町幕府を全盛期に導いた

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月20日

この記事をシェアしよう!

足利義満は武家と公家両方の頂点に立ち、室町幕府を全盛期に導いた

南朝の勢力衰退にともない、守護が力をもつようになると、将軍家はその勢力削減に動きます。足利義満は内紛を誘発するなどして、守護大名一族の弱体化を進めました。

その後、室町幕府は鎌倉幕府を踏襲した体制になりました。中央は幕府が直接支配し、地方は鎌倉府などの機関を通じて間接的に支配。そして、それらの上に将軍が君臨したのです。

足利義満による将軍権威の確立

【要点はココ!】
◎足利義満は有力な守護大名を討伐しました。
◎足利義満は公家に対する影響力も高めていきました。
◎室町幕府は義満の時代に最盛期を迎え、将軍の権威も絶頂に達しました。

足利義満は守護大名を押さえ込む

初代将軍足利尊氏や2代足利義詮(よしあきら)は、南朝に対抗するため各国の守護の強化を進めていましたが、南朝の勢力が衰えると守護が強大化しすぎて、逆に将軍家の脅威となってしまいます。そこで3代足利義満は1380年代末から、有力な守護大名の勢力削減に乗り出します。

3カ国を領有する土岐(とき)氏や11カ国を領有する山名(やまな)氏に対しては、家督争いに介入して一族間で争うように画策、挙兵したところを討伐して領国を減らしました。6カ国を領有する大内義弘(おおうちよしひろ)に対しても同じようなやり方で謀反を起こさせ、それを制圧しています。

こうして足利義満は、1399年までに有力な守護大名を押さえ込んでいったのです。

足利義満は朝廷の権利も奪取する

守護大名討伐で将軍権威を高めた足利義満は、朝廷での影響力の強化にもつとめました。

足利義満は1380(天授6・康暦2)年に23歳で従一位、1382年(弘和2・永徳2)に左大臣、翌年に准三后(じゅさんごう)と、将軍職在任のまま朝廷での地位を高めていきます。さらに朝廷のもつ京都市中の警察権や行政・民事裁判権、課税権なども手中におさめました。

武士でありながら公家のように振る舞う足利義満に、公家たちは憤りを覚えました。しかし、足利義満の権力はもはや絶対的なものになっており、従わざるをえませんでした。

義満による守護大名弱体化策

none

1 2

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!

エリア

トップ > カルチャー > 

この記事に関連するタグ