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藤井能三とは?

藤井能三は、古くから北前船で栄えた伏木の出身で、藤井能三の生家もまた廻船問屋でした。彼の青春時代はちょうど開国から明治への変革期。激動の時代を目の当たりにしたことで、藤井能三は次の時代を担う人材の育成が重要と考えるようになりました。

藤井能三の功績

まず藤井能三の功績として知られるのは、富山県下で最初の小学校である伏木小学校の設立です。校舎には藤井能三の持家を使い、教師の給料や教科書は藤井能三自身が負担。学校では運動器具としてブランコが用意されており、伏木の多くの人が海で生活をすることになるのだから、ブランコで揺れに慣れておくことを目的としていたというのは、実に港町らしい発想です。その後は、女子の教育にも力を入れ、藤井女児小学校を開いています。

藤井能三は神戸港の活気に衝撃を受ける

小学校設立より前の慶応元(1865)年、藤井能三は加賀藩の御用人として神戸出張へ赴いていました。そこで彼は、外国からの大きな汽船で賑わい、大量の物資が積み降ろしされる神戸港の活気に衝撃を受けます。一方、当時の伏木港は、米や北海道移民の移送などの重要な役割をすでに担っていたとはいえ、水深が浅いために座礁事故が絶えず、小さな帆船しか入港できない難点を抱えていました。さらに当時、庄川と小矢部川は、河口の手前で合流して1本の大河川となって富山湾に流れ込んでいました。このためたびたび洪水が起こり、ちょうど河口に位置する伏木港の施設や船舶に及ぼす被害も深刻でした。

藤井能三は伏木港の整備の必要性を訴え

大きな汽船が出入りする神戸港とは対照的に、伏木港は環境を整備しなければ時代に取り残されてしまうという焦燥感に駆り立てられ、藤井能三は港の整備の必要性を地元の人々に訴え始めます。すぐには理解を得られませんでしたが、その間に小学校設立で私財を投じて地域貢献に打ち込んでいた彼の姿は人々の胸を打ち、次第に賛同者が現れ始め、地元の支持を固めていきました

藤井能三の交渉によって伏木港に三菱の汽船が寄港

人々の賛同を得た藤井能三は、当時日本最大の汽船会杜だった三菱汽船社長の岩崎弥太郎に、伏木港に汽船を寄港させてもらえるよう交渉に出ました。このとき岩崎弥太郎から出された3つの条件は、積み荷を集めること、積み荷が船の半分に満たない場合は運賃を補償すること、そして伏木港に灯台を整備すること。藤井能三は伏木に戻って積み荷をかき集め、灯台の建設にはやはり私財を投じます。灯台の建設は期限に間に合わなかったものの、岩崎弥太郎は奔走する藤井能三の情熱を評価し、明治8(1875)年、三菱の汽船が伏木と東京・大阪・北海道・北九州を結ぶこととなりました。

藤井能三は県内初の汽船会社を設立するも…

明治14(1881)年、藤井能三は地元の廻船問屋らと協力して、富山県内初の汽船会社「北陸通船会社」を設立。この頃には、ロシアのシベリア鉄道を利用して、日本の品を伏木港からヨーロッパへ輸送するという夢も生まれていたようです。しかし明治18(1885)年、三菱と揉めたことで会社は倒産。不景気の影響もあり、藤井能三は北前船で築いた財産を失ってしまいます。

藤井能三の悲願だった伏木港が開港場となる

それでも藤井能三は築港を諦めませんでした。会社設立以前からおこなってきた築港工事の申請を続け、ようやく悲願が実現したのは明治32(1899)年のこと。藤井能三が神戸港の光景を目の当たりにしてから実に30年の月日を経て、政府から開港場として指定を受けた伏木港は、外国と自由な貿易が許されることになったのです。

藤井能三が全財産をかけて取り組んだ伏木港の修築

ついに、伏木港で本格的に修築工事が始まります。明治35(1902)年、庄川と小矢部川の切り離し工事が国事業として着工。特に庄川の改修は、藤井能三が一生をかけて取り組んだ事業であり、倒産の末に財産を失った藤井能三を助けようとした伏木の人々が、多くの利益を生みそうな庄川の改修工事の責任者に藤井能三を据えたともいわれています。藤井能三は、庄川の河口と伏木港を分離させるため、河道の新設や川幅の拡幅をおこないます。さらに、伏木港の浚渫や岸壁建設も進み、3000t級の大型船が入港できる港として竣工したのは大正元(1912)年のこと。

しかし、この半年前に、藤井能三は港の完成を見届けることなく66歳で生涯を閉じています。工事が終わった後、費やされた資金の内訳を知った伏木の人々は驚きました。藤井能三が自分の利益を度外視で働いていたからです。

藤井能三が憧れた港の風景が広がる現在の伏木富山港

現在、伏木富山港には大陸からの多くの外航船が入港します。臨海工業地帯、石油配分基地を擁し、対岸諸国との貿易港として経済発展の一翼を担っています。近年は、大型クルーズ船も寄港するように。まさに藤井能三の憧れた港の光景が広がっているのでした。

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・黒部ダムが大電源を生み出すまで
・崩壊を続ける立山カルデラ
・極東の氷河の南限は立山! 国内初の氷河認定とライチョウ
・神秘の光景! 魚津の蜃気楼と雨晴海岸の気嵐
・2000年前に形成された魚津埋没林
・富山の水がおいしいヒミツ
・立山の地下には「何か」がある! 活断層はあるのに地震が少ない理由
・富山湾のホタルイカはなぜ有名?

…など

Part.2 富山を駆ける充実の交通網

・北陸新幹線開業による光と影
・河川敷にある富山きときと空港
・SDGs未来都市に選定 ライトレールが象徴するまちづくり
・伏木港は神戸港に憧れた男の夢
・立山の観光ルートは1つじゃない? 一般開放が待ち遠しい黒部ルート
・マッターホルンの麓町から着想 低速電気バスEMUと宇奈月温泉
・鉄オタ集結地! 富山県は公共交通の宝庫
・V字峡谷を走るトロッコ電車

…など

Part.3 富山の歴史を深読み!

・江戸時代は鮎だった! 駅販売で広がったます寿し
・富山県成立までの複雑な歴史/越中の英雄・佐々成政の人物像
・焼け野原と化した富山大空襲/富山の遺跡&古墳は個性派ぞろい
・放生津に存在した亡命政権
・越中の伊能忠敬 射水出身の測量家・石黒信由
・越中の黄金郷 加賀藩極秘の「越中の七かね山」
・北陸近代医療の父・黒川良安
・世界遺産は加賀藩の軍事工場 五箇山でおこなわれた塩硝づくり

…など

Part.4 富山で育まれた文化や産業

・「越中おわら節」はなぜ有名?
・財政難を立て直した富山の売薬
・布教のためのテキストだった 曼荼羅から読み解く立山信仰
・秀吉も称えた伝説の刀工・郷義弘
・売薬商人は危ない橋を渡っていた? 薬の密貿易が生んだ昆布文化
・有名な創業者も多く輩出 富山県民は倹約家で働き者
・ジャポニズムの立役者・林忠正
・アニメの聖地が多い富山県
・瑞泉寺再建から始まった井波彫刻

…など

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