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紫式部の結婚

紫式部は越前に下る前後、藤原宣孝(のぶたか)という貴族から求婚されていました。藤原宣孝は紫式部のまたいとこにあたり、まったく知らない間柄ではありません。ただ、藤原宣孝は紫式部より20近く年上で、すでに数人の妻と子を持っていました。

しかし藤原宣孝は越前にまで情熱的な和歌をよこし、紫式部もウィットに富んだ和歌を返すなかで宣孝に惹かれていったようです。長徳4年(998)、紫式部が父を残してひと足先に京都に戻ると、ふたりの仲は急速に深まっていきました。藤原宣孝が隔てを置かない夫婦になりましょうと紫式部に迫り、その年のうちに結婚します。そして、当時の慣習に従って藤原宣孝が紫式部の元に通ってくるようになったのでした。

藤原宣孝ってどんな人?

藤原宣孝はかつて父・藤原為時と同じ蔵人(くろうど)を務め、為時の屋敷にも訪ねてきていた様子がうかがえます。紫式部との夫婦仲は良好でしたが、有能な能吏(のうり)だった宣孝は、山城守(やましろのかみ)なども拝命し、その後も九州へ勅使(ちょくし)下向、宮中で音楽奉仕などを拝命しており、多忙を極めていました。

紫式部と藤原宣孝の派手な喧嘩エピソード

『紫式部集』には、新婚早々、夫婦喧嘩をした逸話を見ることができます。

藤原宣孝が紫式部からの手紙を友人らに見せびらかしていたことを知った紫式部が怒り、手紙を全部返せと迫ったのです。このときは和歌のやり取りの末、宣孝が「お前には負けた」と言って仲直りしており、紫式部の性格の一端をうかがうことができます。

京では、伯父の藤原為頼一家と弟・惟規に世話をされながら結婚生活を送りました。しかし、多忙のために通ってこない夫には、これを責める手紙を送っています。

ほかの妻のもとへ通う夫に紫式部が寂しさを感じながらも、知性と個性を持つ似た者同士、夫婦仲は悪くなかったようです。

紫式部と藤原宣孝の恋を育んだ和歌の一例

越前にあった紫式部は、藤原宣孝からの求愛の手紙に対し、つれない文面ながらも趣向を凝らした返事を送っています。

――― 近江の守の娘懸想すと聞く人の、「ふた心なし」と、
    常にいひわたりければ、うるさがりて、

    みづうみに 友呼ぶ千鳥 ことならば
    八十の湊に 声絶えなせそ

                      『紫式部集』二九
 

(訳:近江の守の娘に懸想をしていると噂に聞いているあの人が、
  「貴方だけを愛しています」といつもいってくるので、うるさく思って、

   近江の湖で友を求めている千鳥よ、いっそのことあちこちの湊で
   声を絶やさず鳴きなさい(あちこちで女に声をおかけになればいいわ)

夫・藤原宣孝との死別と『源氏物語』誕生

長保3年(1001)、夫の藤原宣孝が当時都で流行した天然痘にかかって病死し、紫式部の結婚生活はわずか3年ほどで終わります。紫式部は夫の死に触れた歌を多く残しており、深い悲しみに襲われたことがうかがえます。

『源氏物語』は、それから1年ほど時を経て、寂しさを紛らわせるために書き始めたものと見られています。書いた物語を友人に見せ、実家と親交のある才人の具平(ともひら)親王にも読んでもらうなかで、その存在は都の貴人たちの間で評判となっていきました。
やがてこの評判は、当時一条天皇に入内した娘・彰子(しょうし)に仕えさせる女房を探していた藤原道長の耳にも入るのです。

紫式部の本名

紫式部の名は、「女房名」と呼ばれる仕事上の呼び名で、実名は不明。当初、藤原氏出身を示す「藤」と、父の職名・式部丞(しきぶのじょう)に由来する藤式部と呼ばれていましたが、やがて『源氏物語』のヒロイン紫の上にちなんで紫式部となったようです。

紫式部の出仕、宮廷生活

寛弘2年(1005)頃の年末、紫式部は一条天皇の中宮・彰子の女房となります。
彰子の父である藤原道長は、彰子を天皇の寵愛を得る女性にしたいと、周りに仕える教養豊かな女性たちを集めていました。そうした時、『源氏物語』を書く紫式部の評判を耳にして彼女をスカウトしたとみられます。
ただし紫式部本人は当初、出仕に乗り気でなく、道長夫妻はあらゆるルートを使って紫式部に出仕を促します。もともと紫式部と藤原道長の妻の源倫子(みなもとのりんし)はまたいとこの間柄であり、亡き夫・藤原宣孝の兄・説孝(ときたか)も道長に仕える立場。こうした人々に出仕を勧められたうえ、自身の父も弟も藤原道長の恩顧になったことを考えれば断り切れなかったのです。

彰子の初産の記録係を申し付かる

紫式部の宮仕えの様子は、寛弘(かんこう)7年(1010)に、過去を振り返る形で執筆された『紫式部日記』で知ることができます。その日記は寛弘5年(1008)、『紫式部日記』は彰子の出産を待ちわびる土御門殿(藤原道長邸)の様子を事細かに語り、当時の様子を臨場感豊かに伝えることから始まります。紫式部の文学的素養を見込んだ道長から、彰子の出産記録係を命じられたためです。

彰子の発案によって、『源氏物語』の豪華本が制作されます。紫式部は彰子とともに冊子作りを行なったといいます。『源氏物語』の執筆は宮仕えを始めた後も続いていたことがわかります。

歌人・紫式部の才能

紫式部の才能は、当時の貴族に必須の教養とされた和歌にも発揮されました。

日常生活のなかでも折に触れ贈答歌を交わしていた彼女が、生涯にわたって詠んだ和歌およそ130首を収めた歌集が『紫式部集』です。和歌で自身の生涯をたどるようにまとめられ、少女時代から恋愛と結婚、宮仕えの日々の苦労と折々の歌が収められています。

これらの歌にはその折々の紫式部の内面が垣間見えるのが特徴で、女友達に本音を屈託なく語り、夫の足が遠のくことを嘆き、夫との死別を悲しみ、小少将の君との語らいに思いを馳せるなど、自身の思いや弱さがにじみます。晩年に向かうにつれて無常観が漂うのも紫式部の和歌の特徴です。

百人一首にも収められた紫式部の歌

なかでも有名な歌が百人一首にも収められた、『紫式部集』の冒頭に置かれた歌があります。

――― めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に
   雲隠がくれにし 夜半の月影

(訳:久しぶりに会って、まだあなたに会えたともはっきりわからない、そんなわずかの間に、あなたはもう私のもとから去ってしまった。まるで夜半の月が見えたかと思うとすぐに雲に隠れてしまったかのように)

※受領である父に伴われて、地方と都を何度も行き来する友とのめぐりあいのはかなさを詠んだ歌とされています。

紫式部の晩年

『紫式部日記』は寛弘7年(1010)1月の記録を最後に消息と絶っています。その後の紫式部はどうなったのでしょう。

寛弘8年(1011)、一条天皇が崩御し、彰子が枇杷殿(びわどの)に移ると、紫式部もこれに従っています。その年、越後(えちご)の国守に任じられた父の為時を心配して越後へと行った弟が他界するという悲しい出来事がありました。その後の消息は、藤原実資(さねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)に「藤原為時の娘が応対した」とあることから、少なくとも長和2年(1013)5月まで彰子に仕えていたことが分かります。
しかし、これを最後に記録が途絶え、紫式部のその後の消息は不明。40代半ばで死去したともされますが、没年は1014年や2年後、さらには1031年など諸説があってはっきりしていません。

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世界最古の長編小説ともいわれる『源氏物語』は、平安時代の宮廷を舞台に展開される主人公・光源氏と女性たちの恋愛模様を描いた物語で、今もなお多くの人に愛読される日本文学の古典です。ですが、全54帖という長編ゆえに最後まで読み通すのは大変困難な作品であることでも知られています。
本書はこの大長編小説『源氏物語』のあらすじと、作者・紫式部の人と生涯を図版と地図を豊富に用いながらわかりやすく解説した『源氏物語』の入門書です。

【第1部】紫式部とその時代
〔第1章〕平安時代の後宮生活
〔第2章〕紫式部の生涯

【第2部】 押さえておきたい『源氏物語』
〔第3章〕光源氏の青年時代―恋の旅路を歩む貴公子
〔第4章〕栄華の頂点―位人臣(くらいじんしん)を極めた光源氏
〔第5章〕宇治十帖―光源氏亡き後の世界

【監修者】竹内正彦

1963年長野県生まれ。國學院大學大学院博士課程後期単位取得退学。博士(文学)。
群馬県立女子大学文学部講師・准教授、フェリス女学院大学文学部教授等を経て、現在、國學院大學文学部日本文学科教授。専攻は『源氏物語』を中心とした平安朝文学。著書に『源氏物語の顕現』(武蔵野書院)、『源氏物語発生史論―明石一族物語の地平―』(新典社)、『2時間でおさらいできる源氏物語(だいわ文庫)』(大和書房)、『図説 あらすじと地図で面白いほどわかる!源氏物語(青春新書インテリジェンス)』(青春出版社、監修)、『源氏物語事典』(大和書房、共編著)ほか。

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