フリーワード検索

ジャンルから探す

トップ > カルチャー > 

【台湾の歴史】中国大陸との関わり

中国大陸との関わりは、秦(しん)の始皇帝が徐福(じょふく)を派遣した「夷州(いしゅう)」が台湾島であるという説や、前漢の武帝(ぶてい)の時代の「東鯷(とうてい)」、隋(ずい)の煬帝(ようだい)が朱寛(しゅかん)を遣わした「流求」が台湾島、もしくは沖縄を示しているという説があります。
元の時代は元寇(げんこう)の弘安の役(1281年)で澎湖(ほうこ)と絡みがあり、クビライ(フビライ)は江南軍の遠征中継地点として澎湖を押さえました。その後、倭寇(わこう)が跋扈(ばっこ)する時代を迎えますが、1593年には豊臣秀吉が原田孫七郎に服属を促す内容の書を持たせ、「高山国(たかさんこく)」(台湾)に派遣するも、渡すべき相手が見つからずに戻るという一幕がありました。

台湾の歴史:中国大陸との関わり~台湾島への関心が低かった明

明(みん)は当初から台湾への関心が低く、1604年にオランダ人がバタビア(ジャカルタ)から澎湖に達した際、澎湖からの撤退を条件に台湾へ向かうように仕向けました。スペイン人も台湾東海岸の蘇澳(すおう)、基隆(きいるん)を占領しましたが、オランダに攻められて撤退。オランダもまた、鄭成功によって台湾を追われました。鄭成功は清の打倒と明の復興を唱えましたが、1683年、鄭氏政権は清に降伏します。

台湾の歴史:中国大陸との関わり~福建や広東からの移住者が今の台湾人口の8割以上

その後、福建(ふっけん)や広東(かんとん)から台湾海峡を渡って台湾に向かう移住者が増えました。彼らは台湾西部の平地に住みつき、平埔族(へいほぞく)(平地に暮らす原住民族)と血縁関係を結んだ。このような人々の子孫が現在、台湾の人口の約85%を占める「本省人(ほんしょうじん)」なのです。

【台湾の歴史】欧米の関わりが強くなった19世紀

清国統治時代は212年続きましたが、18世紀末になると、欧米列強が姿を見せ始めます。熾烈な植民地獲得競争はすでに始まっており、広大な中国大陸を前に、戦略上の要衝として台湾の地が狙われることになりました。
そして、東南アジアから日本を目指す際にも、台湾はその通過点となりました。イギリスやフランス、アメリカやプロイセン、ロシア、そして日本を巻き込んだ国際情勢のなかで、あらゆる勢力が台湾海峡にうごめいていました。
1840年にアヘン戦争を起こしたイギリスは香港を租借し、清国沿岸の5港を開かせました。同時期、アメリカも台湾に興味を持ち、ペリーの艦隊は浦賀からの帰路、一部が台湾北部で石炭の調査をしています。

台湾の歴史:欧米の関わりが強くなった19世紀~フランスの野心が台湾をはじめアジアにおよぶ

1856年にアロー戦争(アロー号事件)が起こり、天津条約によって基隆港が開港となります。その後、ベトナムの領有をめぐって清仏戦争が勃発。フランスは極東艦隊を台湾に派遣し、基隆湾を攻撃しました。これは清が派遣した劉銘傳(りゅうめいでん)によって追い払われましたが、極東艦隊は福州(ふくしゅう)攻略に転じ、馬江(ばこう)海戦で清国福建艦隊を破っています。

フランスの野心は日清戦争にも影を落としました。下関条約の交渉時、日本は澎湖へ軍隊を派遣しています。これは清との交渉を有利に進めるだけでなく、フランスが澎湖海域に侵入することを警戒したためといわれています。日本はその後、澎湖に要港部を置き、これを基隆と高雄(たかお)に連係させ、さらに廈門(アモイ)にも拠点を置くことで、台湾海峡を勢力下に収めました。
澎湖が軍事拠点として機能していることは現在も変わっていません。

【台湾の歴史】日本の統治下時代から太平洋戦争終戦まで

明治維新を経て、新興国家の道を歩み始めた日本。その最初の試練が日清戦争でした。そして、下関条約で台湾および澎湖地区を得ました。これは日本史上、国際条約を経て得た初めての海外領土でした。
台湾総督府の始政式は1895(明治28)年6月17日に行われました。初代台湾総督は樺山資紀(かばやますけのり)でした。当時は各地で頻発したゲリラの掃討に追われ、北白川宮能久(きたしらかわのみやよしひさ)親王率いる近衛師団(このえしだん)が派遣され、北から南に向かって抗日勢力を鎮圧していきました。戦火は南に向かうほど厳しいものとなり、とりわけ彰化(しょうか)以南の戦闘は熾烈を極めました。この時代の台湾は戦闘に明け暮れる毎日でした。

台湾の歴史:日本の統治下時代~インフラ・経済の基礎が固まった児玉源太郎総督時代

第4代総督の児玉源太郎(こだまげんたろう)の時代に入り、状況は次第に変化を見せてきます。戦火がやむことはありませんでしたが、台湾総督府はこの時期に統治に本腰を入れるようになりました。児玉は民政局長に後藤新平(ごとうしんぺい)を起用し、斬新なアイデアをもとに各種改革を実施していきました。後藤は当地の状況を把握するべく、土地調査と戸籍調査を進め、風土の実情に基づいた法規を整えていきました。同時に財源を確保し、衛生事情の改善や交通機関の整備、教育の普及、製糖事業をはじめとする産業開発を手がけました。台湾経営の基礎はこの時期に固まりました。

こういった後藤の功績は注目すべきですが、見方を変えれば、台湾の人々が台湾総督府という体制のもとに組み込まれていったともいえます。特に製糖産業がモノカルチャー的な性格を帯びつつあった中南部では、その傾向が顕著でした。

台湾の歴史:日本の統治下時代~近代の台湾化が進んだ大正期以降

その後、大日本帝国の農業基地となっていった台湾ですが、恵まれた気候や土壌といった自然条件に加え、灌漑(かんがい)用水路の整備や農業全般の研究、品種改良、農法の改善、実業教育などを計画的に行うことで、想定以上の結果を生み出しました。

大正期は産業インフラの拡充も進みました。水力発電所の建設や港湾の整備、鉄道網や道路の整備などが進み、昭和時代に入る頃には、台湾は工業の島へと変わっていった。
さらに治水工事や教育機関の拡充、衛生事情の改善なども進み、社会的な安定が実現。この時期は公会堂や図書館といった公共施
設も増えていった。

都市としても、新興都市である台中(たいちゅう)や高雄(たかお)、そして、台湾東部の花蓮港(かれんこう)(現・花蓮)などが大きく成長しました。いずれも綿密な都市計画によって整備が進められ、近代的な街並みを誇った。

台湾の歴史:日本の統治下時代~太平洋戦争に巻き込まれ大きな犠牲を強いられる

しかし、戦時期には帝国の南進基地となり、戦闘員の確保のため、台湾人のアイデンティティを日本人に変える「皇民化(こうみんか)運動」が展開されます。そして、軍事的な需要も高まり、工業化の勢いが加速していきました。都市部を中心に大型産業施設が設けられましたが、これらは戦時中、空襲の被害に遭いました。
そして、台湾人もまた、軍人・軍属として、戦地に駆り出された事実も忘れてはなりません。厚生労働省によると、20万7183人が戦地に赴き、その内の3万306人が命を落としています。また、高砂族(たかさごぞく)(原住民族)の青年で組織され、南方に派遣された高砂義勇隊もあり、悲劇は免れませんでした。

台湾の歴史:日本の統治下時代~終戦後の台湾管理者は中華民国国民党に

そして、1945(昭和20)年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、台湾および澎湖地区の領有権と請求権を放棄しました。当時、台湾には軍民合わせて約50万人の日本人がいましたが、台湾の管理者となった中華民国国民党政府は日本人が台湾にとどまることを嫌いました。12月27日から送還事業が始まり、翌年2月21日からは民間人の引き揚げも開始。台湾に暮らした日本人は当人の意思にかかわらず、台湾を去ったのでした。

台湾の「ヤスクニ」? 台湾人戦没者を祀る廟

新竹県北埔(しんちくけんほっぽ)にある南天山済化宮(なんてんざんさいかぐう)には、台湾人戦没者が祀られています。
先の大戦では、台湾からも数多くの青年が戦地に赴きました。その数は厚生労働省援護局資料によると、軍人約8万人、軍属約12万6千人。合計約20万7千人におよびます。戦死者・戦病死者数は3万306人であり、行方不明者を合わせると、約3万3千人となっています。
ここでは靖国神社から名簿の提供を受け、台湾人戦没者を供養しています。2万7864柱の「軍魂霊位牌」が置かれ、毎年10月25日には例祭が行われています。

【台湾の歴史】戒厳令が解除されたあとの目まぐるしい発展

敗戦によって日本人が台湾を去ると、蒋介石(しょうかいせき)率いる中華民国国民党政府が台湾の統治者となりました。その後、長らく国共内戦の戦時体制下に置かれた台湾でしたが、1987年に戒厳令が解除され、民主化が進んで新時代を迎えました
1990年代後半からは都市インフラの整備に力が注がれるようになり、都市交通システムの拡充や公共施設、芸術空間などの整備が熱心に進められて現在に至る。2004年末には新しいランドマークである台北101も登場しました。絶え間なく成長を続ける魅惑の大都会でなのです

『台湾のトリセツ』好評発売中!

地域特有の地勢・地形、歴史、交通、文化、産業・・などのジャンルから知っておきたいトリビアを深掘りしていく「トリセツシリーズ」。国内47都道府県の刊行も終え、新たに台湾版が登場! デジタル産業を中心に、近年、目覚ましい経済発展を遂げている台湾をトリセツ流に徹底紹介します。日本とは地理的にも歴史的にも身近な存在である台湾について改めて学びたい人にうってつけの一冊です。

【著者】 片倉佳史(かたくらよしふみ)

台湾在住作家。武蔵野大学客員教授。台湾を学ぶ会代表。1969年生まれ。
早稲田大学教育学部教育学科卒業後、出版社勤務を経て台湾と関わる。台湾に残る日本統治時代の遺構や建造物を記録するほか、古写真や史料の収集、古老や引揚者の聞き取り調査を進める。 著書に『台北・歴史建築探訪』、『台湾旅人地図帳』、『台湾に生きている日本』、『古写真が語る台湾 日本統治時代の50年』など。
台湾事情や歴史秘話、日台の結びつきなどをテーマに講演をこなすほか、ツアーの企画なども行なっている。

『台湾のトリセツ』を購入するならこちら

リンク先での売上の一部が当サイトに還元される場合があります。
1 2

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!

エリア

トップ > カルチャー > 

この記事に関連するタグ