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三方国替えによって起こった天保義民事件とは?領主交代に領民が抵抗! 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月16日

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三方国替えによって起こった天保義民事件とは?領主交代に領民が抵抗!

幕末に近い天保年間、庄内藩に領地替えの幕命が下ります。このとき領主交代に異を唱えたのは、庄内藩の領民たちでした。いったいなぜでしょうか。

三方国替えが突如幕府から下る

1840(天保11)年、突然幕府より庄内藩に転封の命が下ります。川越(かわごえ)藩主・松平斉典(まつだいらなりつね)を庄内藩(鶴岡市)へ、庄内藩主・酒井忠器(さかいただかた)を長岡藩(新潟県長岡市)へ、長岡藩主・牧野忠雅(まきのただまさ)を川越藩(埼玉県川越市)へ領地替えするという、三方国替えでした。

庄内藩の領民はこの措置におおいに驚きます。というのも、庄内藩では前藩主・酒井忠徳(ただあり)のときに藩政改革に成功していたからです。殖産興業と農政改革が奏功し、表高14万石の庄内藩は実高では21万石に達していたとされています。それに対して酒井氏の転封先となる長岡藩は7万石でした。

幕府より命じられた転封の概略。川越藩主の救済に加えて、新潟で行われた密貿易について長岡藩を罰する目的があったとされている。庄内藩には転封の理由は説明されませんでした。

三方国替えの理由は川越藩主松平斉典による幕府への働きかけ

この三方国替えは、川越藩主・松平斉典が以前から転封を願い出ていたことに起因しています。川越藩の財政難に悩んでいた斉典は、より経済的に安定した藩へと国替えしてもらうために、多額の工作資金を費やしたり、大御所・徳川家斉(いえなり)(前将軍)の二十五男(松平斉省(なりさだ))を養子に迎え入れたりして、幕閣へとはたらきかけていました。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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