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源平合戦②:一ノ谷の戦い

【要点はココ】
◎源平合戦は源氏の優位に展開しました。
◎一ノ谷の戦いで源義経が大活躍をみせます。
◎義経は裏手の断崖を一気に駆け下りる奇襲「鵯越の逆落とし」で平氏軍を翻弄しました。

源平合戦の山場「一ノ谷の戦い」で形成逆転を狙う平氏

源平合戦において、源氏は源頼朝(みなもとのよりとも)とその従兄弟木曾義仲(きそよしなか)を旗頭に戦いを進めました。

伊豆で挙兵した頼朝は石橋山の戦いで敗れるも富士川の戦いで勝利。信濃で挙兵した義仲は倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで大勝した後、京都を攻略し、平氏を都から追い落とします。

その後、義仲は後白河法皇と対立して頼朝らに討たれ、源氏の勢力は頼朝の下に一本化されました。そうしたなかで迎えたのが、1184(寿永(じゅえい)3)年2月の一ノ谷の戦いです。

源平合戦のヒーロー・源義経の奇襲「鵯越ごえの逆落おとし」

平氏は福原の一ノ谷に強固な砦(とりで)を築いて反攻を狙っていました。これに対し、源頼朝は異母弟範頼(のりより)と源義経の軍勢を差し向けます。

範頼と義経は二手に分かれ、範頼率いる5万の主力部隊は一ノ谷の正面に陣取ります。一方、騎兵を中心とする義経1万の部隊は京都から六甲山系の山道を通って三草山(みくさやま)で平資盛(すけもり)の軍を撃破。その後、義経は別動隊を率いて一ノ谷後方の断崖「鵯越(ひよどりごえ)」にまわります。

そして、いよいよ戦闘がはじまりました。戦局が一進一退を繰り返すなか、義経は自らが先頭に立って人馬もろとも険しい崖を駆け下り、正面の敵と戦っていた平氏軍を背後から急襲。いわゆる「鵯越の逆落(さかお)とし」です。この奇襲で戦いの帰趨(きすう)は決し、源氏は大勝することになりました。

一ノ谷でみせた義経の奇襲

『平家物語』の記事によると、戦の天才として名高い源義経は一ノ谷の戦いで本領を発揮。鵯越の急斜面を馬で駆け下りる奇襲に出て、平氏軍を大混乱に陥れました。

鎌倉殿の13人と関連の人物:源 頼朝

言わずと知れた鎌倉幕府の創設者。平治の乱に敗れた後、20年も流人生活を送っていましたが、平氏打倒の兵を挙げ、リベンジに成功、武家政権を樹立します。しかし、その絶頂のときに急死してしまいました。

一ノ谷の戦いは『平家物語』に基づくもので、最近の研究では虚構とされています。一ノ谷などで起こった複数の戦いをひとつに圧縮しており、義経の活躍も実際は地元武士の功績だったといわれています。

源平合戦③:壇ノ浦の戦い

【要点はココ】
◎平氏は壇ノ浦で最終決戦に挑みます。
◎潮流の変化が勝敗を分けました。
◎追い詰められた平氏一族は海に身を投げ、源氏が源平合戦に勝利。平氏から覇権を奪取しました。

源平合戦は壇ノ浦で最終決戦!

一ノ谷の戦いに敗れた平氏は、続く屋島の戦いでも敗北を喫し、どんどん追い詰められていきました。瀬戸内海を西へ、西へと向かい、1185(文治(ぶんじ)元)年3月に関門(かんもん)海峡の壇ノ浦へ到着。ここで500艘そうの船団で源氏を待ち構え、最終決戦を挑むことにします。

源氏は、源義経(よしつね)率いる840艘の船団に加え、長門(ながと)の陸地に源範頼軍を配して平氏を包囲。3月24日の早朝、戦いがはじまりました。

源平合戦での源氏の勝利は源義経の冴えた策略によるもの

開戦当初は、平氏が戦いを優位に進めます。平氏軍は数の上では不利でしたが、もともと海戦が得意なうえ、潮が西から東へと流れていたため、その流れに乗って源氏軍を押し込むことができたのです。一方、押され気味の源氏軍は、義経が平氏軍の船の船頭や舵取りを狙い撃つ作戦をとり、船団を足止めします。

正午頃からこう着状態に入り、時間だけが過ぎていきます。しかし夕方近くになると、大きな動きがありました。西から東へと流れていた潮流が反転すると、これを勝機とみた源氏軍は潮の流れに乗って総攻撃をかけ、平氏軍の船団を押し返したのです。

もはやこれまでと悟った平氏一族は、安徳(あんとく)天皇を抱いた平清盛の妻二位尼(にいのあま)をはじめ次々と海へ身を投げました。こうして源氏は源平合戦に勝利したのです。

鎌倉殿の13人と関連の人物:北条 政子

北条政子は源頼朝の妻で、2代将軍頼家(よりいえ)、3代実朝(さねとも)の母でもあります。頼朝の死後、尼(あま)となって幕政にかかわり、「尼将軍」と呼ばれました。承久(じょうきゅう)の乱の際、動揺する御家人(ごけにん)たちの結束をうながした演説は有名です。

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見どころ―目次から抜粋:鎌倉時代

■源氏の挙兵/宿命のライバル、平氏と源氏が全国各地で戦を繰り広げる
■一ノ谷の戦い/平氏の野望を打ち砕く 源義経の奇襲「鵯越の逆落とし」
■壇ノ浦の戦い/日本史上初の本格的海戦が勃発 戦局を左右したのは潮の流れ!
■奥州合戦/源平合戦で大活躍した源義経を兄の頼朝が排斥した理由とは?
■鎌倉幕府成立/全国に守護が設置され、頼朝の征夷大将軍任命で幕府が成立!
[中世史の最前線]あの肖像画は将軍ではない?源頼朝の本当の顔
■幕府の統治機構/封建制のはじまりとなった鎌倉幕府の統治システム
■13人の合議制/カリスマ源頼朝の死後、幕政の主導権を握った13人とは?
■比企能員の乱/「13人」のメンバーの北条時政が粛清の嵐で源氏将軍の独裁を阻む
■和田合戦/鎌倉で大規模な市街戦が勃発!北条義時と古参の御家人の戦い
■将軍断絶/3代で途絶えた源氏将軍の系譜 ますます勢いを増す北条氏の権勢
■後鳥羽上皇の企み/目指すは公武合体による親政 後鳥羽上皇がついに動き出す!
[中世史の最前線]言葉のイメージはよくないが、院政は悪いシステムではなかった?
■承久の乱/公武の力関係を大きく変える中世最大級の大乱が起こる!乱の結果、幕府が勢力を拡大し、公武二元体制を終わらせた
■執権政治/武家政権を安定させたのは稀代の名執権・北条泰時!
■文永の役/日本侵略の危機!そのとき幕府はどう動いた?
■弘安の役/モンゴル軍が再び襲来するも、またもや暴風雨によって失敗!
[中世史の最前線]元寇で「神風」は吹いたのか、吹かなかったのか?
■鎌倉新仏教/上流階級から庶民のものへ……次々に誕生した新しい仏教宗派
[中世史の最前線]鎌倉新仏教と旧仏教はどんな関係だった?
■得宗専制政治の確立/将軍にならず得宗として権力を掌握した北条氏一族
■両統迭立/皇位継承が不安定に……皇統が持明院統・大覚寺統に分裂!
■正中の変・元弘の変/幕府に戦いを挑み、2度も失敗……それでも信念を貫いた後醍醐天皇
■鎌倉幕府の滅亡/幕府方の足利高氏が謀反!新田義貞も活躍し幕府が滅びる

見どころ―目次から抜粋:室町時代

■建武の新政/武家軽視の方針が仇に……挫折した後醍醐天皇の夢
■中先代の乱/ついに後醍醐天皇と決別!政府打倒を目指す尊氏
[中世史の最前線]黒い馬にまたがる騎馬武者は足利尊氏ではない?
■南北朝の分立/朝廷が分裂して天皇も2人に!北朝と南朝の攻防がはじまる
■観応の擾乱/尊氏と直義の骨肉の争い!史上最大の兄弟喧嘩の顛末は?
■将軍権威の確立/武家と公家両方の頂点に立ち、幕府を全盛期に導いた足利義満!
■幕府統治機構の確立/鎌倉幕府を踏襲した統治機構が義満の時代にようやく確立する
■南北朝合一/南北に分裂していた朝廷が約60年のときを経てひとつに!
■日明貿易/優先すべきは名より実 巨大ビジネスをものにした義満
[中世史の最前線]足利義満は本当に天皇の地位を奪おうとしていたのか

著者紹介

山田 邦明(やまだ・くにあき)
1957年、新潟県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。東京大学史料編纂所教授などを経て、現在愛知大学文学部教授。日本中世史を専門とする。主な著書に『鎌倉府と関東』(校倉書房)、『日本の歴史8 戦国の活力』(小学館)、『日本中世の歴史5 室町の平和』『戦国のコミュニケーション』『人物叢書 上杉謙信』(以上、吉川弘文館)、『日本史のなかの戦国時代』(山川出版社)、『鎌倉府と地域社会』(同成社)などがある。

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