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宇喜多秀家は岡山城の築城に着手

1588(天正16)年、宇喜多秀家は備前(びぜん)・美作(みまさか)・播磨(はりま)西部・備中東部の57万4000石を知行する大大名にふさわしい、居城の築城に着手します。居城の場所として目を付けたのが、父・直家の城があった石山に隣接する岡山でした。現在岡山城がある周辺は旭川下流の沖積平野で、平野の中に天神山・石山・岡山という小さな三つの丘が連なっていました。直家はこの中の一つ、石山に城を持っていて城下町の建設にも着手していましたが、本格的な近世城郭は宇喜多秀家の岡山城からです。

宇喜多秀家は岡山城をどんな城にしたのか?

宇喜多秀家は秀吉の指導を受けながら、城と城下町を整備していきました。岡山城は別名「烏城(うじょう)」と呼ばれ、下見板(したみいた)に黒漆(くろうるし)を塗った黒い姿が特徴的です。黒い城は当時の流行で、城主の威厳を示すためにも有効でした。岡山城は土台が五角形ですが上に行くほど正方形に近づいていきます、左右非対称の複雑な形をしており、見た目の変化に富んだ様式美を持ちます。鬼瓦や丸瓦などの突出した部分にだけ金箔瓦を使うことで、インパクトのある美しい城となりました。

宇喜多秀家が秀吉に許された岡山城の金箔瓦

金箔瓦を 用いたのは、秀吉に許された大名だったといわれています。秀家は秀吉に身内同然にかわいがられていたからこそ、金箔瓦の使用が許されたのでしょう。

宇喜多秀家の「対毛利戦」だった岡山城

当時、 宇喜多秀家の知行地の西には毛利が存在していました。岡山城を築城するころには、毛利はすでに秀吉に服従していましたが、西の大国である毛利は警戒に値する存在でした。このため岡山城は、「対毛利戦」の拠点としての役割も担っていました。これは堀を見れば一目瞭然です。岡山城の東側(豊臣側)を守るのは旭川のみで、これより向こうには堀がありません。しかし西側(毛利側)には、旭川の古い川筋を利用した堀が複数点在しています。

宇喜多秀家は岡山城下町の建設にも着手

宇喜多秀家は築城と同時に、城下町の建設にも着手します。商工業者を城下に集め、山陽道を城下に引き込むことで商業発展を目指しました。もちろん秀吉の助言もあったでしょうが、宇喜多秀家自身にも「京や大坂に見劣りしない、立派で見栄えのよい城下町をつくりたい」という思いが強く、「商家を二階建てにすること」「古い家屋は取り壊して立て直すこと」など、さまざまな御触れを出しています。旭川の支流では洪水も多かったので、支流を利用した堀を造ることには治水の意味もあったのでしょう。旭川の流れに沿うように町割をしたため、岡山の城下町は南北に長くなっています。

宇喜多秀家は23歳の若さで五大老となる

宇喜多秀家はその後も秀吉政権の中で順調に出世し、1595(文禄4)年に、23歳の若さで五大老の一人に任じられます。ちなみに他の4名は、徳川家康(52歳)、毛利輝元(てるもと)(42歳)、上杉景勝(かげかつ)(39歳)、前田利家(56歳)です。実力不足が否めない若輩者の宇喜多秀家を、なぜ秀吉は五大老に選んだのでしょうか。

宇喜多秀家が五大老に選ばれた理由とは?

要因として考えられるのが、宇喜多秀家の若さと「幼いころから仕えてくれた腹心」という安心感です。もともと豊臣家には、血縁者が少ないのです。五大老の中で最も若い宇喜多秀家に、「自分亡き後、末永く息子の秀頼(ひでより)を支えてほしい」という期待を込めたのでしょう。しかし1598(慶長3)年に秀吉が亡くなると、五大老の徳川家康が影響力を強め、宇喜多秀家の立場はどんどん弱くなっていくのでした。

宇喜多秀家は秀吉の死で力を失う

1599(慶長4)年、家臣の対立から宇喜多騒動が勃発し、重臣の浮田左京亮(うきたさきょうのすけ)・戸川達安(とがわみちやす)・岡貞綱(おかさだつな)・花房正成(はなぶさまさなり)らが大坂で立てこもり事件を起こします。徳川家康の裁断によって内乱は回避されましたが、直家の代から仕えていた優秀な家臣が宇喜多家を退去しました。なお、宇喜多家を去った家臣の多くは、後に家康に仕えています。頼みの綱だった岳父の前田利家も、この年に病没。秀吉という強大な後ろ盾を失った秀家は、急速に力を失いました

宇喜多秀家は関ヶ原の合戦後、流罪

1600(慶長5)年、毛利輝元を総大将として石田三成(みつなり)らが挙兵。宇喜多秀家は副大将として西軍(豊臣方)の主力となりました。関ヶ原の合戦では、西軍最大の軍勢である1万7000人を率いて、東軍の福島正則隊と戦闘。西軍が総崩れとなった後は伊吹山に逃げ込み、薩摩まで落ち延びます。宇喜多秀家は薩摩に3年間潜伏した後に出頭。関係者の取りなしなどで死罪を免れ、八丈島に流罪となります。

宇喜多秀家が去った岡山城

宇喜多家は家康によって改易され、旧宇喜多家領は小早川秀秋に与えられています。小早川秀秋は岡山城に入ってわずか2年で病没。後継者不在で廃絶となった小早川家に代わって、岡山城は池田忠継(ただつぐ)に与えられますが幼少のため、当初は兄の利隆(としたか)が入国して政務を執りました。忠継のあとは弟の忠雄(ただお)が1615(元和元)年に淡路から国替えとなって入封しました。忠雄の没後は跡継ぎの光仲(みつなか)が幼少であったため、鳥取の池田光政(みつまさ)と国替えとなりました。光政の時代に百間川(ひゃっけんがわ)開削や閑谷(しずたに)学校設立、子の綱政(つなまさ)の時代に干拓や後楽園の造営など、今に残る事業が行われました。

岡山城を現在の姿とした池田家

宇喜多家のあとを受けた小早川家や池田家は岡山城を拡張し、今に残る本丸の姿が完成したのは池田家の時代です。本丸は本段・中の段・下の段の三段構成で、拡張された中の段には政務を行う表書院が整備されました。現在の中の段では表書院の間取りが地面に表示され、埋められていた宇喜多時代の石垣が、一部地面を掘り下げて展示されています。

岡山城の石垣に注目!

ここで、岡山城の石垣に注目してみましょう。宇喜多秀家が築城した当時、石垣の加工法は形も大きさもバラバラの自然石を積み上げる「野面積(のづらづみ)」が主流でした。池田忠雄が石垣を拡張した江戸時代初期には、石を加工して石同士の隙間を減らして積む「打込接(うちこみはぎ)」という方法が採られています。そして江戸中期に修復された石垣は、成形した石を隙間なく積む「切込接(きりこみはぎ)」という方法で積まれています。岡山城は、戦国・江戸初期・江戸中期の3時代の石垣の積み方が残る、珍しい城なのです。

岡山城を任された池田家とは?

岡山は中国地方の入り口であり、西への備えです。江戸幕府は岡山に、外様ではありますが縁組した池田家を配置しました。池田家初代・忠継の父は今に残る姫路城を建てた池田輝政、母は徳川家康の次女です。2代目の忠雄は忠継の同母弟であり、その子孫は鳥取に移されました。3代目の光政の父は池田輝政の長男・利隆、母は徳川秀忠の養女、妻は千姫の娘です。関ヶ原の戦以降姫路に配置された池田家は、その後岡山藩と鳥取藩に移り、幕末まで続いています

岡山城は明治維新後に取り壊された

岡山城は明治維新後に取り壊され、堀の多くは埋め立てられて市街地の一部となりました。本丸に残されていた天守は、1945(昭和20)年の岡山空襲で焼失。現天守は、1966(昭和41)年に外観を復元したものです。池田家が築造した西手櫓(にしてやぐら)や月見(つきみ)櫓は当時のままの姿で残っており、重要文化財に指定されています。

内堀・中堀・外堀を合わせ計五つの堀があります。外堀(現在の柳川筋)は小早川秀秋が20日の突貫工事で造ったといわれ「二十日堀」と呼ばれました。
資料提供:岡山シティミュージアム

>>今の岡山城の見どころを知るならこちらの記事へ

岡山城(烏城)

住所
岡山県岡山市北区丸の内2丁目3-1
交通
JR岡山駅から岡電東山・おかでんミュージアム駅行きで4分、城下下車、徒歩10分
料金
見学料=大人320円、小・中学生130円/備前焼作り体験(粘土500g、送料別)=1250円/(岡山市内在住の65歳以上は無料、各種障がい者手帳持参で本人と同伴者1名入場料が無料)
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