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日本の火山噴火の歴史:御嶽山の火山噴火(岐阜県)

御嶽山は有史以来休止期に当たり、死火山だと認識されてきました。文書上の記録は1979(昭和54)年の水蒸気噴火が最初であり、「死火山・休火山」という枠組みを消す原因となりました。2007(平成19)年にも小規模の水蒸気噴火をしますが、冬季のため被害はありませんでした。その後、2014(平成26)年の噴火が起こります。

御嶽山は標高2000m近くまで自家用車で入れて、ロープウェイもあるため幅広い層に人気があります。それが仇となり、秋の行楽シーズンの正午近く、山頂に最も人が集まる時間に噴火しました。膨大な数の噴石(最大で直径60cmほど)が放出され、死者・行方不明者63名という戦後最悪の火山災害を招きました

中部地方整備局HP「御嶽山噴火におけるTEC活動」、木曽御岳安全対策情報HP「御嶽山入山規制図」などを元に作成

御嶽山は今後も突然噴火する可能性が高い

この2014(平成26)年の噴火は、1979(昭和54)年の火口列の南側で突然起こりました。前兆はほぼなく、約2週間前の一時的な火山性地震と、噴火10分前の火山性微動と傾斜計の変化のみで、噴火警戒レベルは1。当時の観測体制は脆弱で、外部機関の地震計が故障しているなど不十分でした。
これ以降、気象庁は噴火警戒レベル1を「平常」から「活火山であることに留意」へと改め、火山噴火予知連絡会の検討会は「噴火速報」を導入しています。しかし前兆なく突然噴火する可能性は高く、予知は難しいのが実情です。

日本の火山噴火の歴史:磐梯山の噴火(福島県)

磐梯山を南(表磐梯)から見ると美しい三角形の山頂が目につき、それは会津富士とも称されます。ところが、北の裏磐梯から見ると一転、荒々しいカルデラが目にとまります。

大きくえぐれたカルデラは、1888(明治21)年の噴火により形成されました。山頂にあった小磐梯山(こばんだいさん)の北側が吹き飛び、山頂から670m、約3分の1を失い、大爆裂火口ができたのです。このときの噴火は、爆発の規模や人的被害の大きさから、火山災害史上、最大級のひとつとして知られています。

7月初旬、噴火の1週間ほど前から磐梯山周辺では火山の鳴動や遠くで鳴る雷のような音が聞こえていました。これが噴火の前兆だったのです。

7月15日午前7時頃、地震が発生。震動は徐々に強くなっていきます。そして、7時45分に磐梯山が噴火を始めました。爆発が15~20回ほど連続して起こり、最後に北へ向かって横向きの大爆発を起こしました。

磐梯山の噴火による被害

岩屑なだれによって麓の5つの村などが埋没し、477人もの犠牲者が出ています。同時に噴火の爆風が山麓を下り、山の東側は多くの木々がなぎ倒され、家屋や学校が破壊されました。噴き上がった火山灰は、東側の山麓では10数㎝も降り積もったといわれます。

日本の火山噴火の歴史:浅間山の大噴火(群馬県)

幾度となく噴火を繰り返している浅間山ですが、そのうち最も時代が新しい大規模な噴火が天明3(1783)年の大噴火です。その勢いはすさまじく、火口から勢いよく火炎を吹き上げ、猛火が山を焼きました。当時の地元の人たちは、「突然鬼が暴れて、真っ赤な舌を出して襲ってきた」と表現しており、驚愕の光景が目に浮かびます。

日本のポンペイと呼ばれる鎌原地区

このとき流れ出た大量の土砂は猛スピードで広がり、火口から約12km離れた鎌原(かんばら)村(現・嬬恋村)では高台にあった観音堂に逃げ込んだ人は助かりましたが、逃げ遅れた多くの村人が命を落としました。これは村の人口570人のうち、477人が土石流の犠牲になるという壊滅的な被害でした。

イタリアにも火山災害により埋没した、有名な古代都市のポンペイ遺跡がありますが、同様に火山災害で埋もれた村が遺跡として残る鎌原地区は「日本のポンペイ」と称されることも多くなっています。

鎌原村を襲った土砂はその後も泥流となって50以上の村を次々と飲み込み、1500人以上の尊い命を奪いました。

大噴火が引き起こした天明の大飢饉

当時は、地球規模の寒冷化による冷害が起きていたと考えられており、そんななかでの浅間山の噴火は気候不順に拍車をかけました。なかでも東北地方の被害が大きく、農作物の収穫が激減したことにより、多くの人々が飢えて命を落としました。これが歴史的な「天明の大飢饉」です。飢饉は噴火の翌年になっても続き、農民たちは飢えと貧困の苦しい生活に不安を募らせました。

日本の火山噴火の歴史:阿蘇山噴火(熊本県)

その昔、九州は2つの島だったことをご存じでしょうか?今から約200万年前、日本を形成するプレートの働きにより九州は南北に引き伸ばされ、中央部が陥没・分断された2つの島でした。現在、「別府−島原地溝帯」と呼ばれているところがそうです。

その後、約27万年前に阿蘇火山が活動開始、約14万年前、約12万年前と大噴火を重ね、約9万年前の4回目の巨大噴火で大火砕流が発生し、周辺に広大な火砕流台地がつくられました。この噴火で巨大カルデラが形成され、カルデラ内には雨水がたまり、湖を形成。その後、立野火口瀬という雨水が流れ出す谷の形成によって湖が消失し、数千年前までに現在の姿となりました。

日本の火山噴火の歴史:富士山の大噴火(山梨県、静岡県)

富士山の噴火の中でも、平安時代の864(貞観(ていかん)6)年に、富士山の北西に位置する長尾山が引き起こした「貞観大噴火」の規模は、有史以来最大ともいわれ、流出した溶岩は、森を焼き払い、湖を埋めつくし、動植物が一切生息することができない死の大地に一変させてしまうほどのものであったと考えられています。

富士山の噴火として著名なものに、江戸時代中期1707(宝永4)年の「宝永大噴火」がありますが、近年、国土交通省と静岡大学の合同チームが行ったボーリング調査やレーザーを使った上空からの精密測量による分析では、貞観大噴火で流れ出した溶岩は約1.45k㎥と、宝永の噴火をはるかに上回る規模であることが明らかになっています。このことからも貞観の噴火がいかに大規模なものであったかを知ることができます。

噴火が生みだした「富士五湖」と「青木ヶ原樹海」

富士山の北麓にある「富士五湖」は言わずと知れた観光地。もともとは富士山と北側にある御坂山地の間の谷でした。

平安時代の800(延暦19)年に「延暦大噴火」と呼ばれる大きな噴火が起きます。『日本紀略』の記録によると「噴火は同年の3月14日から4月18日まで1カ月以上も続き、昼は噴煙が空を覆って辺りを暗くし、夜は噴き上げる火が天を明るく照らし出す。噴火の音は雷のように大きく、灰は雨のように降り注ぐ。溶岩は山下の川に流れ込んで真っ赤に染める」とあります。

それほどの大きな噴火によって、宇津湖は現在の山中湖と「古忍野湖(こおしのこ)」と呼ばれる湖に分かれます。古忍野湖は徐々に水が干上がって忍野盆地となり、ところどころに湧き出す忍野八海がその名残りを留めています。その後の864(貞観6)年の噴火で、剗の海は西湖と精進湖に分かれ、現在の富士五湖の形となりました。

 

「青木ヶ原樹海」は富士山の北西、富士河口湖町と鳴沢村にまたがって生い茂る原生林で、「富士の樹海」とも呼ばれます。その面積は約30㎢にもおよび、冷え固まった溶岩の上で植物が育つ世界的にも珍しい森林帯です。これもまた「貞観大噴火」によって流出した膨大な量の溶岩が、その土台をつくりました。

 

日本の火山噴火の歴史:喜界カルデラの超巨大噴火(鹿児島県)

鹿児島県南の海底に存在する巨大な鬼界カルデラ。
約7300年前の大噴火は、南九州に壊滅的な被害をもたらしたことがわかってきています。

鬼界カルデラは、先史時代以前に何回か大規模な噴火を繰り返してきており、そのもっとも新しいものが、約7300年前に起こった世界最大規模の超巨大噴火です。縄文時代前半に起こったこの噴火では、海底火山から数百℃の火砕流が発生。火砕流は時速数百㎞のスピードで海上を走り抜け、大隅半島や薩摩半島など南九州地域一帯を襲いました。

鬼界カルデラの巨大噴火は縄文文化を壊滅させた!?

鬼界カルデラが起こした約7300年前の巨大噴火は、南九州の環境だけでなく、人間の文化にも大きな影響を与えています。当時、九州南部には縄文人が暮らしていましたが、この火山灰層の上と下の地層では、石器や土器などの形式がまったく違っていることが明らかになっています。

この巨大噴火によって南九州に栄えていた縄文文化は壊滅し、噴火後、数百~1000年近くにわたって無人の地になってしまいました。その後、違う文化を持った人たちがやってきて、この地で暮らし始めたと考えられています。

日本列島ではこれまでカルデラ噴火が、約12万年で10回、頻度としては1万年に1回起こっています。前回の超巨大噴火から約7300年経っていることから、次の噴火が迫っている可能性もあるのです。巨大噴火に備えるためにも、今鬼界カルデラの調査に注目が集まっています。

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