フリーワード検索

ジャンルから探す

トップ > カルチャー >  関西 > 兵庫県 >

この記事の目次

廃線と廃線跡:鹿島鉄道(茨城県)

石岡(いしおか)と鉾田(ほこた)を結び、2007(平成19)年4月まで運行していたローカル私鉄が鹿島鉄道です。

鹿島鉄道の歴史は、大正時代に発足した鹿島参宮鉄道(当初は行方鉄道)に遡ります。同鉄道は常磐線と霞ヶ浦北岸を結ぶべく、1924(大正13)年6月に石岡〜常陸小川間が開業。延伸を繰り返し、1929(昭和4)年5月に石岡〜鉾田間が全通しました。

その後、合併、子会社化などを乗り越えましたが、廃線は避けられる時代ではなく、利用者の中心だった地元高校生による「かしてつ応援団」や有志による存続運動も行われたものの、2007(平成19)年4月、惜しくも全線が廃止されたのでした。

廃線と廃線跡:塩原電車、日光登山鉄道(栃木県)

明治から昭和にかけて、栃木県内には数多くの民営鉄道が開業しました。しかし、時代とともにその多くは廃線となり、今は鉄道史の記録のなかで静かに眠っています。

廃線:塩原電車

当初、東北本線の西那須野と温泉地・塩原を結ぶ電気軌道として計画されましたが、工事を急ぐために蒸気機関に変更。1912(明治45)年に塩原軌道として西那須野~関谷が開業しました。1921(大正10)年には電化されて塩原電車と社名を変更します。翌年には、塩原温泉郷の入り口である塩原口まで延伸されました。その後、塩原温泉までの路線延長も計画されますが、資金難や不況、自動車の普及により1936(昭和11)年に廃線となりました。

>>塩原電車の廃線についての詳しくはこちらの記事へ

廃線:日光登山鉄道(馬返~明智平(あけちだいら))

日光を代表する景勝地のひとつである明智平へのアクセスのために、1932(昭和7)年にケーブルカーの路線として開業。翌年には明智平展望台行きのロープウェイも完成し、日光駅から路面電車(日光軌道線)、ケーブルカー、ロープウェイを乗り継いで明智平展望台まで行けるようになりました。しかし戦後、自動車の普及で経営が悪化、1970(昭和45)年にケーブルカーは廃止されました。

>>日光登山鉄道の廃線についての詳しくはこちらの記事へ

廃線と廃線跡:信越本線横川~軽井沢駅(群馬県)

明治26(1893)年、トンネル数26、レンガ造りの橋梁18を要する難工事の末、悲願の信越本線横川(よこかわ)駅~軽井沢駅が開通。標高差は約553m。この急勾配を走ることになったのは、ドイツから輸入したアプト式蒸気機関車で、横川駅~軽井沢駅を約80分で結びました。さらに明治45(1912)年には国鉄初の電気機関車の運転が開始されました。

その後、碓氷峠を含む、横川駅~軽井沢駅の最大の転機となったのは、1997年の長野新幹線 現・北陸新幹線の開業です。これを機に碓氷峠区間は廃線となり、群馬の信越本線は横川駅が終着駅となりました。

>>信越本線横川~軽井沢間の廃線についての詳しくはこちらの記事へ

廃線跡:碓氷峠鉄道文化むら

横川駅に隣接する、かつての横川機関区跡は現在、碓氷峠の鉄道文化を後世に伝える碓氷峠鉄道文化むらとなっています。この施設では、日本で唯一の本物の電気機関車運転体験が可能。3万円と高額な講習料金にも関わらず、重量108tの本物の電気機関車を動かせるとあって、大人気のスポットになっています。

廃線と廃線跡:赤城登山鉄道(群馬県)

赤城登山鉄道は正式名称を旧赤城山鋼索鉄道(きゅうあかぎさんこうさくてつどう)といい、昭和32(1957)年に完成した赤城山観光のための約1kmのケーブルカーです。開業約10年後には赤城有料道路に客足を奪われて廃線となりました。

>>赤城鉄道の廃線についての詳しくはこちらの記事へ

廃線跡:登山道に転用

現在その軌道跡の一部は登山道として再利用されています。その旧赤城山頂駅は売店に改装され、2018年には国の登録有形文化財に指定。同鉄道の資料を展示する役割も担っています。廃線をうまく再利用した例としては、アプト式を採用した信越本線の碓氷峠(うすいとうげ)区間も広く知られています。

廃線と廃線跡:東武熊谷線(埼玉県)

東武熊谷線は単行の気動車が走るローカル線で、建設には軍需輸送が関係しました。

熊谷線は熊谷から妻沼(めぬま)までの10.1㎞を結び、妻沼線とも呼ばれました。軍需線のため、1942(昭和17)年の免許申請後すぐに着工。第一期工事は熊谷〜妻沼間で、突貫工事により翌年12月に開業しました。

戦後は単独のローカル線に転じ、地元の足として活躍。地域をあげて、東武鉄道には延伸の要望を出したが叶わないませんでした。さらに昭和40年代、モータリゼーションによって利用者が減少。1983(昭和58)年6月、熊谷線は、惜しまれつつも廃止されました。

廃線跡:遊歩道となり往時を偲ぶ

熊谷線の廃線跡は一部が遊歩道(かめのみち)になり、線路跡が残され往時の軌跡をたどることができます。また、熊谷市立妻沼展示館にはキハ2000形も大切に保存されています。利根川には、未完成に終わったコンクリート製の橋脚が1基残っており、波乱の歴史を今に伝えています。

廃線・廃線跡を地図から詳しく知るなら『レールウェイマップル』

廃線・廃線跡を地図から詳しく知るなら『レールウェイマップル』

1945年(昭和20年)の終戦以降に廃止となった鉄道路線を地図上に表示。かつての路線網の充実ぶりに驚かされます。各廃線にも解説コメントを添えるのはもちろんのこと、歴史的価値の高い建造物や橋梁、隧道(トンネル)などの遺構群のプロットにも注力。日本の発展とともに歩んだ鉄道の歴史を、地図を辿りながら読み解きます。

リンク先での売上の一部が当サイトに還元される場合があります。

廃線と廃線跡:横浜市電(神奈川県)

横浜市電は、横浜電気鉄道により1904(明治37)年7月、神奈川(神奈川停車場前)~大江橋(横浜停車場前、のちの桜木町駅前)間で開業したことに始まります。翌年には大江橋~西の橋(元町)間と税関線も開業し路線を延伸。大正期になると不況により料金値上げが検討されましたが、市民に反発を招き、これが原因で1921(大正10)年、市が同鉄道を買収し横浜市電気局が発足。晴れて横浜市電がスタートしました。

最盛期には年間輸送人員は1億2000万人台に達しましたが、栄光も長くは続かず、モータリゼーションにより自動車が氾濫、正常運行が困難になります。こうして市は、横浜市電の廃止を決定。1972(昭和47)年3月、惜しまれつつも全廃しました。

>>横浜市電の廃線についての詳しくはこちらの記事へ

廃線跡:麦田(桜道)トンネルと横浜市電保存館

廃止から半世紀近くが経ち、横浜市電の面影はほぼ消滅しましたが、今も往時を偲ばせるのが麦田(桜道)トンネルです。市電廃止後はそれぞれが上下線に個別した道路トンネルとなりましたが、往時の雰囲気が今もよく残されています。

また、横浜市電の滝頭車両工場跡地には横浜市電保存館があります。歴代の車両、敷石や標識などが保存され、横浜市電の歴史を見学できます。

横浜市電保存館

住所
神奈川県横浜市磯子区滝頭3丁目1-53
交通
JR根岸線根岸駅から市営バス市電保存館前行きで7分、終点下車すぐ
料金
入館料=高校生以上300円、3歳以上100円/(65歳以上200円、障がい者手帳持参で本人と同伴者1名無料、20名以上の団体は高校生以上200円、中学生以上50円、市営バス1日乗車券・ICカードでの市営バス利用で高校生以上200円、3歳以上50円)
1 2 3 4 5 6 7

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!

エリア

トップ > カルチャー >  関西 > 兵庫県 >

この記事に関連するタグ