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縄文時代の年表:草創期/1万6500年前~1万1500年前頃

縄文時代の開始時期については、主に3つの見解があります。いずれも土器の使用状況を基準としたもので、土器が出現した約1万6500年前頃、土器が列島各地に普及した約1万5000年前頃、そして貝塚の出現食料加工技術の定着、定住生活の確立など、縄文的な文化が浸透した約1万1500年前頃の3説です。
どれを開始時期とするかは意見が分かれていますが、土器の出現から縄文文化の成立までおよそ5000年もの期間があり、旧石器時代から緩やかに移行したことがわかります。

縄文時代の草創期は移動から定住生活へ

冒頭で説明した縄文時代の6つの区分のうち、縄文時代の幕開けとなるのが草創期です。草創期は最終氷期が終わり、温暖化が始まるなかで、土器の使用や定住化が始まった時期に当たります。
草創期の前半では、簡素な住居跡が見つかってはいますが、掘り込みはほとんどなく、炉もない場合が多いので、長期の居住には適していません。まだこの段階では移動生活も多かったと考えられます。1万3000年前からは遺跡が山間部へと広がります。一部ではしっかりした竪穴住居が登場し、定住性が強まるとともに、土偶の製作や墓の出現など精神文化の発達が見られました。

縄文時代の草創期にはじまった土器の使用

縄文時代の始まりとなる草創期は1万6500年前に、最終氷期が終わり1万5000年前頃の温暖化が始まるなか、土器の使用が始まる時代です。九州南部地域では縄文時代最古の縄文人たちの痕跡が数多く発見されています。おもな遺跡を見てみましょう。

上野原:縄文時代最大最古の集落跡。
東黒土(ひがしくろつちだ)国内最古のドングリ貯蔵穴が検出。
志風頭(しかぜがしら)ほぼ完全な形の最古級の土器が出土。
栫ノ原(かこいのはら):縄文時代初めの夏の定住地。国内最古の燻製施設が検出。
掃除山(そうじやま):縄文時代初めの冬の定住地。

※その頃西日本では?
中国・四国では堅固な竪穴住居が検出されておらず、定住化はあまり定着していませんでしたが、南九州では長期居住可能な竪穴住居が作られ、定住化が進んでいました。

縄文時代の年表:早期/1万1500年前~7000年前頃

草創期に続く早期は1万1500万年前〜7000年前頃の期間を指します。約1万1600年前から温暖化がさらに進み、気温が一気に7度ほど上昇します。この時期は様々な点から定住化が進展したことがわかります。

早期の末までにドングリの大量貯蔵システムが確立して食料の供給がある程度安定する一方、東北や関東を中心に貝塚が形成されました。また籠作りなど植物素材の活用や、狩猟におけるイヌの利用も始まります。さらに定住生活が始まった地域には墓域や配石遺構が登場し、千葉県の取掛西(とりかけにし)貝塚では動物祭祀の跡も発見されています。

縄文時代早期は日本列島の主流はまだ移動生活だった

一方で堅牢な住居や長期の居住集落の痕跡は少なく、墓のない集落も多いため、まだ日本列島の多くで移動型の狩猟採集生活が営まれていたと考えられています。そうしたなかでも、北海道函館市の中野B遺跡では、津軽海峡を望む台地上に早期後半の竪穴住居跡が700棟以上発見されており、大規模な集落が誕生していました。
また東日本では小規模な集落が中心でしたが、沿岸部や汽水域に貝塚が形成され、定住化の動きが見られます。ただし使用されていた土器は、屋外で地面に穴を掘り、立てて使用する尖底土器が中心でした。

縄文時代早期の主な遺跡

縄文時代早期には、定住が一部で始まり貝塚の形成が始まりました。

函館空港中野B遺跡:津軽海峡を臨む海岸の台地の上に広がる大規模な集落跡12万㎡の範囲から700棟以上の竪穴住居跡や尖底土器など60万点もの遺物が発見された。
長七谷地(ちょうやしち)貝塚:尖底土器をはじめ組合せ式の釣り針、銛、縫い針、笄などの骨格製品が出土している。
岩井堂(いわいどう)岩陰遺跡大小4箇所の洞窟から成る岩陰遺跡。第2洞窟から尖底土器など縄文時代早期の居住跡が発見された。
長根(ながね)貝塚宮城県内最大級の縄文貝塚。貝層は縄文時代早期末から晩期に至る。
取掛西(とりかけにし)貝塚:住居跡より動物祭祀の痕跡が発見された。
夏島(なつしま)貝塚国内最古級の貝塚。貝塚跡のほかにもそれまで発見されていなかった形式の土器が発見された。
東名(ひがしみょう)遺跡:低地の貝塚から700点以上のカゴ類、骨製装身具が出土した。
上野原(うえのはら)遺跡46棟の竪穴住居をはじめ多数の遺構が検出された集落遺跡。
※7000年前頃に起こった鬼界カルデラの噴火により、南九州の縄文文化は壊滅状態となる。

※その頃西日本では?
南九州では上野原遺跡などを中心に大型集落が誕生し、東日本で後期後半に増える壺形土器がすでに製作されていました。また、住居内での調理や貯蔵に使用する平底の土器も浸透し、集落に祭祀空間もありました。

縄文時代の年表:前期・中期/7000年前~4420年前頃

7000年前〜4420年前頃の前期から中期にかけて、縄文文化は高揚期を迎えます。7000年前頃から温暖化が進み、高温ピーク時には現在より2度ほど高温で、海水面は2.5mも上昇。縄文海進(かいしん)が進み、栃木県まで海が侵入しました。

台地上に大規模集落も登場し周囲の開発も進むなど定住化が本格化します。東日本では、祭祀場を中心に住居群、貝塚、墓域、貯蔵穴などが円環的に広がる環状集落が形成され、中期になると、地域によっては100棟以上の住居が建てられていた大集落が生まれました。安定した定住生活に比例して人口も早期の2万人から、前期に10万人、中期には26万人へと急増しました。

また、土器などに集団のリーダーや呪術者らしき人が表現されるようになっており、中期までに「特別な人物」が登場していた可能性が指摘されます。

縄文時代前期・中期は交易が活発化し、祭祀の複雑化が進む

発展を支えたのが集落間や遠距離の交易の活発化です。コハクや黒曜石やヒスイなど、必要物資を遠隔地からも入手するためのネットワークが形成されました。
また、安定した生活のなか、東日本を中心に祭祀が複雑化し、精神文化の成熟もみることができます。土器や土偶の地域差が拡大し、多様化が進みました。縄文土器の象徴的存在となっている火焔型土器(かえんがたどき)が製作されたのも、この時期のことです。

縄文時代前期・中期の主な遺跡

最も温暖化が進んだ時代、人口が増加し定住が進んで大規模集落が形成され、環状集落が登場。集落間や遠距離の交易も盛んに行なわれました。

東釧路(ひがしくしろ)貝塚イルカの「送り場」や埋葬されたイヌなどが発見された。
三内丸山(さんないまるやま)遺:縄文時代前期中頃から中期末葉にかけて繁栄した大規模集落遺跡。黒曜石やヒスイの交易の中心地でもあったと考えられている。
笹山(ささやま)遺跡国宝となった火焔型土器が出土した遺跡。
篠山(しのやま)貝塚縄文海進によって生じた奥東京湾に面していた奥東京湾最奥部に位置する貝塚。
加曽利(かそり)貝塚:約5000年前の縄文時代中期から形成され始めた大規模な2つの貝塚と環状集落から成る遺跡。
尖石・与助尾根(とがりいし・よすけおね)遺跡:八ヶ岳西側山麓地帯の標高1050~70mの台地上に広がる集落遺跡。黒曜石産地を背後に控え、豊かな森に囲まれて繫栄した。
鳥浜(とりはま)貝塚:縄文草創期から前期の低湿地遺跡で、水中に投棄された食べ物や道具類に加え、ほぼ完全な形で残った最古の丸木舟が出土した。
国府(こう)遺跡83体の埋葬人骨が出土した縄文時代前期の遺跡。
轟・曽畑(とどろき・そばた)貝塚朝鮮半島とつながりのある前期の土器が出土した。

※その頃西日本では?
西日本では集落が形成されても住居数は少なく、祭祀遺物も見られない集落が多く、小規模な集落がほとんどでした。また、住居も簡便なものが多く、移動と定住の混交生活が送られていたと推測されています。

縄文時代の年表:後期・晩期/4420年前~2350年前頃

温暖な気候が続いていた縄文時代中期ですが、その終末から後期、およそ4200年前頃に気温が寒冷化し、食料事情が悪化しました。このため、東日本では今までのような大型集落を維持することが難しくなり、人々は小規模集落に分散してリスクを減らすスタイルで居住するようになります。
しかしながら、後期の中頃には再び温暖化し、東日本では再び大型の集落が形成されるようになりました。このような動向のなか、後期後半の北海道ではキウス周堤墓群(しゅうていぼぐん)のように規模が大きく、特定の人々が多数の装身具・副葬品を持つような墓が築造されるようになりました。このことから、後期後半以降、一時的に階層化した社会が出現した可能性が指摘されています。

縄文時代の晩期は稲作が渡来し、弥生時代へ

縄文時代晩期になると、東北地方では目が特徴的な遮光器土偶や優美な亀ヶ岡(かめがおか)式土器で知られる亀ヶ岡文化が栄えましたが、関東地方では中期ほどふるわず、明確な集落が少なくなってしまいます。そしておよそ3000年前、北部九州に朝鮮半島より稲作文化が伝来し、弥生時代の開始が告げられますが、その頃の東北地方は亀ヶ岡文化が最盛期を迎えていたことにも注意が必要です。

縄文時代後期・晩期の主な遺跡

寒冷化が進んで集落が小規模化し、立地の多様化が進んだ時代です。北海道や東北地方などで特別な墓が築かれるようになり、平等社会からの変容とみられる状況が起こりました。

キウス周堤墓群:周囲を土塁で囲まれた縄文後期の集団墓8基から構成される史跡。
カリンバ遺跡:縄文時代後期末の土坑墓群から大型合葬墓も4基が検出。このうち3基から漆塗りの櫛や腕輪、腰飾り帯などの装身具を身に着けた被葬者が発見された。
亀ヶ岡(かめがおか)遺跡:縄文時代晩期の集落遺跡である。遮光器土偶が出土。
三内丸山遺跡
大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)日本最大のストーンサークル。
里浜貝塚:縄文時代後期の製塩土器が出土した遺跡。貝塚自体は縄文時代を通して継続された。
三貫地(さんがんじ)貝塚:貝類、縄文土器、人骨などが発見された縄文後期~晩期にかけての集落跡。
姥山(うばやま)貝塚日本屈指の大貝塚。これまでに多くの埋葬人骨が出土している。
金生(きんせい)遺跡:八ヶ岳の南麓のほぼ中央部にあった縄文晩期の集落跡。幅10m長さ60mに及ぶ大規模なものを含む配石遺構5基が発見された。
子易・大坪(こやす・おおつぼ)遺跡敷石住居跡が出土した集落遺跡。
山鹿(やまが)貝塚多数の装身具を着装した後期の人骨が20体程出土している。

※その頃西日本では?
西日本では相変わらず小規模な集落が卓越しますが、後期以降人口が増加し、遺跡数も多くなっていきます。この背景には東日本からの移住が想定されており、西日本の縄文文化が順調に推移していた証拠です。

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累計25万部を突破した『地図でスッと頭に入る~』シリーズ。
三内丸山遺跡をはじめとする17遺跡で構成する「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録され、縄文ブームが再来している。本書は、意外な面白さを秘めた縄文時代を知るための入門書。縄文時代はどんな時代だったのか、縄文人はどのように暮らしていたのか、不思議な形の土器や土偶の意味は何かなど、日本文化の原点である縄文時代のヒミツ、最新事情を地図や写真、イラストとともに紹介。

地図でスッと頭に入る縄文時代■一部内容抜粋

□南方の縄文人は、丸木舟で海を渡って日本にやってきた
□とある村は65歳以上が3割 縄文人は意外と長生き!
□東日本の縄文人はクリ、西日本はイチイガシが好物、クッキーやハンバーグも作った
□摂取カロリーは現代人並み! 1万年も戦争がなかったのは“豊かな”社会だったから
□縄文時代にも起こった大地震 鬼界カルデラの大噴火で壊滅した南九州の縄文文化
□縄文土器のデザインを見ると、地域ごとの交流のようすがわかる
□ストーンサークルは日時計? 縄文人が時間を認識していた可能性
□抜歯の激痛に耐えられれば、一人前の大人として認められた
□すでにガンに悩まされていた! 縄文人の病歴を示す三貫地遺跡の頭蓋骨
□DNA分析で判明! 縄文人は弥生人に駆逐されたのではなく、次第に混血していった
□縄文人にとってイヌは大事なパートナー(狩りに用い、死ぬときちんと埋葬した)

【監修】 山田康弘(やまだ やすひろ)

1967年東京都生まれ。筑波大学第一学群人文学類卒業、筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科中退。博士(文学)。現在、東京都立大学人文社会学部教授。専門は先史学。縄文時代の墓制を中心に当時の社会構造・精神文化について研究を行う一方で、考古学と人類学を融合した研究分野の開拓を進めている。

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