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河東の乱~関東三国志 武田 vs.今川 vs.北条

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月13日

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河東の乱~関東三国志 武田 vs.今川 vs.北条

今川義元の寝返りが北条氏綱を激怒させ、駿河東部が北条領となります。北条氏綱、河越城を包囲され進退窮まります。

河東の乱~今川義元の寝返りで北条氏綱が激怒!駿河東部が北条領に

関東にて境を接する甲斐の武田、伊豆・相模の北条、駿河・遠江(とおとうみ)の今川の三国の争いは今川義元の裏切りで幕を開けます。

北条氏綱が関東に、今川義元が駿河支配を固める一方、両氏は甲斐統一を進める武田信虎を共通の敵としていました。信虎の甲斐統一に今川・北条が介入し、さらに甲斐統一後も互いに侵入を繰り返しいました。

ところが天文5年(1536)、今川義元が、北条氏綱との共通の敵である武田と甲駿同盟を結んだことで三氏の争いの様相が変わり始めます。

北条氏綱は激怒し、東駿河に侵攻します。この第一次河東の乱で、氏綱は駿河東部の駿東・富士二郡を占領します。しかしこれにより北条は、両上杉氏に加え、武田・今川も敵に回し、四面楚歌(しめんそか)に陥ってしまいます。この状況は、天文10年(1541)に氏綱から氏康、武田信虎から晴信(信玄)への当主交代を機に終息したかに思ました。

河東の乱~今川 vs. 北条~

天文6年(1537)、武田信虎と今川義元の同盟成立に激怒した北条氏綱が、駿河に侵攻して富士川以東の2郡を奪います(第一次河東の乱)。これに対し今川義元は、天文14年(1545)、奪われた2郡を奪還すべく出兵。北条方は河越城を古河公方らの軍勢8万に囲まれる状況にあったため、武田晴信の仲介により2郡の返還を条件に今川氏との間に和睦が成立しました(第二次河東の乱)。

大島の戦い~武田 vs. 今川~

大永元年(1521)、今川配下の福島氏が甲斐に侵攻。信虎が迎え撃つも敗れ、甲府への撤退を余儀なくされます。しかし、続く飯田河原にて 武田方が勝利をおさめ、福島氏は撤退します。

山中の戦い~武田 vs. 北条~

天文4年(1535)、武田信虎の侵攻を受けた今川氏輝からの援軍要請を受けた北条氏綱が大軍を率いて郡内から侵攻。武田方の小山田信有を破ったが、信虎と同盟する扇谷上杉氏が相模に侵入したため、撤退します。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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