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浦野匡彦(うらのまさひこ)

元二松学舎大学学長・日本遺族会副会長。1910年、群馬県吾妻郡生まれ。“上毛かるた”の生みの親。1946年、満州から故郷・群馬へ引き揚げ。群馬の子どもたちに愛すべき故郷・群馬の歴史や文化を伝えたいと、かるたでの伝承を発案。上毛新聞紙上で構想を発表し、県内から題材を広く募る。翌年、群馬の名所旧跡や出身者などを取り上げていた44枚の郷土かるた“上毛かるた”が誕生した。

小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)

江戸幕府末期の武士。豊後守、上野介。 勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任。8歳から私塾で学び、剣術・砲術・柔術・山鹿流兵学も学ぶ。1855年、家督を相続。1860年、米・ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国。その後、多くの奉行を務め、幕府の財政再建や洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行なう。大政奉還に反対し、討幕派諸藩との対決を決意。1868年の『鳥羽・伏見の戦い』で敗北した徳川慶喜に主戦論を建議するも、却下される。上野国に引き上げるが、新政府軍に斬首された。

国定忠治(くにさだちゅうじ)

江戸時代後期の侠客(きょうかく)、博徒。“忠次”とも記される。「国定」は、生誕地の上野国佐位郡国定村に由来。本名:長岡忠次郎。1810年生まれ。上州から信州一帯で活動。賭博を生業とし、「盗区」として一帯を実質的に支配。関東取締出役(とりしまりしゅつやく)の追及を受け、何度も赤城山中に隠れた。国定村に戻って匿われていたが、密告されて捕らえられ、磔になった。『天保の大飢饉』で農民を救ったとして、講談や浪曲、映画や大衆演劇などの題材となっている。

小見辰男(おみたつお)

洋画家。1904年群馬県前橋市生まれ。1947年に群馬県で誕生した“上毛かるた”の絵札を水彩画で描いた。“上毛かるた”は群馬の子どもたちに愛すべき故郷・群馬の歴史や文化を伝えたいと、浦野匡彦(うらのまさひこ)が発案。上毛新聞紙上で構想を発表し、県内から題材を広く募った。群馬県の歴史・自然・人物・産業などを取り上げている44枚のかるたを水彩画で表現。その後、1968年、小見の要望で全札が描き替えされた。以降、定期的に新しい情報に書きかえられている。

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

平安時代初期の公卿、武将。4代の天皇に仕えた。桓武天皇の軍事と造作を支え、二度にわたり征夷大将軍として蝦夷(えみし)征伐に功績を残す。また、東北経営にかかわる全指揮権を与えられ、陸奥国に胆沢城と志波城を築いた。桓武天皇の皇子・平城上皇と嵯峨天皇の対立から起こる『薬子の変(くすこのへん)』などでも、力を発揮。“毘沙門天の化身”などと称されたことから、“伝説上の人物”のようにいわれる。

扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)

室町時代に、関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。戦国時代に河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を拡大した。上杉重顕の弟・上杉憲房の諸子から出た諸上杉家と同じく、鎌倉公方(関東公方)に仕えて鎌倉の扇谷(現:鎌倉市扇ガ谷)に居住したことから扇谷家の家名が起こった。1546年、河越城の戦いで滅亡したとされている。

山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)

室町時代に、関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。上杉氏4代当主・上杉憲顕(初代関東管領)が祖で、鎌倉の山内(現:鎌倉市山ノ内)に居住したことから山内家の家名が起こった。室町幕府初代将軍・足利尊氏は憲顕のいとこ。上杉家は公家である藤原氏の支族だが、武家の足利将軍家との姻戚関係で関東管領を世襲するなど、関東で勢力を拡大した。

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