フリーワード検索

ジャンルから探す

トップ > カルチャー > 

この記事の目次

山城大掾国包(やましろだいじょうくにかね)

江戸時代の仙台藩の刀工。藩に多くの刀工がいる中、その名を馳せた名工。本名は、本郷源蔵。大和国の名工・保昌五郎貞宗の末裔と言われ、保昌五郎貞宗の柾目鍛えを復活させたことでも知られる。1592年、23歳の時に仙台藩主・伊達政宗の命により、山城国の刀工・初代 越中守正俊の門人となる。1619年に仙台藩に戻ると鍛冶場を開き、仙台藩工として鍛刀に励む。

大和伝保昌派(やまとでんほしょうは)

江戸時代以前の刀剣制作の伝法「五箇伝」のひとつで、その中で最も古いとされている伝法「大和伝」。平安時代後期から鎌倉時代にかけて「大和五派」と言われる五つの流派が興り、「保昌派」は「保昌五郎貞宗」が始祖とされ、大和国高市郡(現在の奈良県)において鎌倉時代末期に刀剣制作を行なった。複数の名工が輩出され、なかでも「保昌五郎貞吉」が作刀した短刀「桑山保昌」は国宝に指定されている。

支倉常長(はせくらつねなが)

仙台藩伊達政宗の家臣。藩主伊達政宗が仙台藩内でのキリスト教布教容認と引き換えに、メキシコとの直接貿易を求めて、スペイン国王およびローマ教皇に派遣した外交使節団「慶長遣欧使節団」を率いた。1613年、大西洋と太平洋を横断し、スペイン国王とローマ教皇に面会を果たすも、幕府のキリスト教弾圧が激しくなるなどしたため目的を達成できず、7年後の1620年に仙台へ戻った。

松浦佐用姫(まつらさよひめ)

肥前国松浦郡(現在の佐賀県唐津市)にいた豪族の娘で、大伴狭手彦の妻。夫の「朝鮮遠征」を領巾(ひれ)を振って見送り、嘆き悲しみ、そのあまり、石となってしまったとの伝承がある。“日本三大悲恋伝説”と言われ、「万葉集」に歌が収められているだけでなく、後には『悲しみのあまり石と化した』などさまざまな伝承も加わり、能や浄瑠璃などの題材にもなっている。なお、類似の物語は全国に散見されている。

加右衛門(かえもん)(画工)

江戸時代中期の俳人。大淀三千風の門弟で、木版彫刻業を営む。松尾芭蕉の『奥の細道』に登場。元々、芭蕉があてにしていた地元の名士たちがことごとく都合がつかず。仙台で知り合った画工加右衛門が、仙台城や亀岡八幡神社といった名所を案内してくれ、さらに先の絵地図や餞別まで持たせてくれたことに感激し、画工加右衛門の心遣いや人柄への賛辞を記している。

ビスカイノ

スペインの対日特派使節。メキシコ副王より日本近海の金銀島調査と、日本に漂着したフィリピン総督が江戸幕府の援助でメキシコに送還されたことへの謝礼の使として、1611年に来日。徳川家康・秀忠に謁見。家康から日本沿岸の測量許可を得て、仙台藩の北部沿岸から九州沿岸まで測量を行った。その後、金銀島を探索したが失敗。1613年、慶長遣欧使節団の支倉常長の船でメキシコに帰国した。

ルイス・ソテロ

スペイン人宣教師。日本におけるフランシスコ会宣教活動の中心人物。1603年に来日し、徳川家康・秀忠に謁見。日本での布教に従事し、伊達政宗の知遇を得る。秀忠による江戸のキリシタン迫害で死刑を宣告されるが、政宗の嘆願で刑を免れた。政宗の慶長遣欧使節として、支倉常長に同行。日本に戻る際、日本はすでにキリスト教禁制下にあったが、薩摩に潜入。ただちに逮捕され、2年後長崎で火刑により殉教。

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!

エリア

トップ > カルチャー > 

この記事に関連するタグ