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【長野の歴史】鎌倉幕府の樹立に尽力した信濃武士

1180(治承4)年、以仁王(もちひとおう)(後白河天皇の第三皇子)が平氏打倒の令旨(りょうじ)を発すると、信濃国木曽谷(きそだに)(木曽郡木曽町)に匿われていた木曽義仲(きそよしなか)が挙兵しました。義仲は信濃武士を率いて入京しますが、源義経に敗れて近江国粟津(おうみのくにあわづ)(滋賀県大津市)で討死します。

鎌倉幕府成立後、信濃守護には比企(ひき)氏が任じられました。木曽義仲に協力的だった国人らを束ねていましたが、源頼朝の死にともなって比企氏も没落してしまいます。代わって信濃守護となったのは幕府の実権を握る執権北条氏でした。執権北条氏の所領を管理する守護代は北条得宗(とくそう)家の被官から選ばれ、信濃国では諏訪氏が御内人として台頭し、幕政でも高い地位を得ました。このため信濃国は鎌倉幕府と深い関係を構築していましたが、1333(元弘3)年、鎌倉幕府は新田義貞(にったよしさだ)に攻め滅ぼされてしまいます

【長野の歴史】鎌倉幕府の滅亡後、権力闘争に巻き込まれる信濃武士

鎌倉幕府の滅亡後、京に後醍醐天皇の建武政権が樹立(建武の新政)すると、鎌倉には鎌倉将軍府が置かれました。建武政権に反抗する諏訪頼重(よりしげ)は、1335(建武2)年、北条時行(ときゆき)(14代執権・高時(たかとき)の遺児)を擁立して挙兵します。鎌倉幕府の再興を企て、鎌倉を占拠するのでした(中先代の乱)。この乱は足利尊氏(たかうじ)によって鎮圧されますが、その後、北条時行は南朝に属して北朝の足利方と戦うことになります。また、後醍醐天皇の第四皇子・宗良(むねよし)親王(南朝の征夷大将軍)が大河原(下伊那郡大鹿(おおしか)村)を拠点としたこともあり、南北朝時代の信濃国では南朝が優勢でした。

【長野の歴史】反乱が頻発し、強大な大名が育たないまま戦国時代へ

信濃国は鎌倉府の管轄に移管されたこともあり、鎌倉公方(くぼう)の発言力が強く、幕府が任じた守護(小笠原氏、斯波(しば)氏)と鎌倉府が推挙した守護(上杉氏)が並立する二人守護体制が取られました。南北合一(明徳の和約)後、小笠原氏が守護職に復しますが、かねてより小笠原氏と対立してきた国人たちは一斉に反発し、大規模な国人蜂起へと発展します(大塔合戦(おおとうがっせん))。この合戦に敗れた小笠原氏は京都に追放されました。信濃は幕府直割の時期を経て、再び小笠原氏が守護となりました。その後も国人衆の反乱は頻発し、信濃国内には自立した強大な大名が誕生しないまま、応仁の乱、戦国時代を迎えます。

【長野の歴史】外部権力が国内に! 混迷した戦国時代

隣国の甲斐でいち早く戦国大名化した武田氏は、父親を追放して家督を相続した武田晴信(はるのぶ)(信玄)が信濃への侵攻を開始しました。信濃には武田氏に対抗しうる大名勢力が存在せず、諏訪氏、小笠原氏、村上氏らが信濃を追われます。そして信濃全域を掌握した武田信玄は、越後の長尾景虎(ながおかげとら:上杉謙信)と対立し、北信の川中島で何度も激突するのでした。武田氏は、1582(天正10)年に織田信長の甲州征伐で攻め滅ぼされます。しかし、同年6月に本能寺の変で信長が横死すると、信濃の旧織田領には徳川、上杉、北条氏が進出(天正壬午の乱)し、北信濃四郡は上杉氏の、そのほかの地域は徳川氏や小笠原氏の所領となりました。この混迷の最中、真田氏は上田城(上田市)で自立を果たし、豊臣政権下でも所領を安堵されるのでした。

信濃国に強力な戦国大名が生まれなかった結果、甲斐武田氏、越後長尾氏など外部権力を国内にひきこむことになりました。
『長野県の歴史』(山川出版社、2010年)を元に作成。

【長野の歴史】江戸時代の信濃国内には小藩が林立

1600年(慶長5)年の関ヶ原の合戦に際し、真田氏は家を存続させるために、当主・昌幸は西軍につき、嫡男(ちゃくなん)・信幸(信之)は東軍に与しました。真田昌幸と二男・信繁(幸村)は上田城に籠城し、徳川秀忠の大軍を足止めさせることに成功しますが西軍は敗北してしまいます。ただ、東軍で真田信之が活躍したことで真田氏は江戸幕府では譜代(ふだい)格として遇(ぐう)せられ、上田藩を立藩しました。1622(元和8)年に真田氏は上田藩から松代藩13万石に加増転封(てんぽう)され、そのまま松代藩主として幕末まで藩政を担いました。

松代藩を筆頭とし、信濃国内には江戸時代を通じて合計19藩が置かれました。このうち10万石を超えるのは松代藩のみで、松本藩6万石、上田藩5万8千石と続き、あとは1~3万石程度の小藩ばかりでした。こうした大名所領以外にも天領(幕府直轄領)、旗本領、寺社領、他藩の飛び領などが点在し、とりわけ天領だけで14万石が信濃国内に存在しました。

【長野の歴史】百姓一揆の発生率は全国でもトップクラス

江戸時代の信濃国は、強大な藩が存在しなかったことも一因にありますが、とにかく一揆が多くありました。とくに規模が大きかった騒動としては、1686(貞享3)年に松本藩で起きた加助騒動(貞享騒動:かすけ・じょうきょうそうどう)、1761(宝暦11)年に上田藩で起きた宝暦騒動が挙げられます。どちらも1万人以上の農民が参加し、藩政を揺るがすほどの大事件でした。

もともと信濃国は寒冷で、冷害に悩まされやすい地域でした。北信の豪雪地帯から江戸へは多くの出稼ぎ人を送り出したように、農家にとっては過酷な環境であり、そこに藩から重税がかけられて農民の不満が爆発したのです。また1782(天明2)年には天明の大飢饉、1783(天明3)年には浅間山大噴火といった自然災害も重なり、庶民生活は逼迫(ひっぱく)しました。

【長野の歴史】戊辰戦争では信濃の諸藩が勤皇派に

下級藩士の子でしたが、藩主・真田幸貫(さなだゆきつら)は象山を抜擢して海外事情を研究させました。象山は幕府老中海防掛(かいぼうがかり)となった幸貫に意見書「海防八策」を提出し、日本の進むべき道を示すのでした。松代藩は幕府から黒船来航に備えて品川台場(東京都港区)の警固を命じられたこともあり、この頃には、来るべき国際化の波への心構えが培われたようです。戊辰戦争が始まると、松代藩をはじめとする信濃の諸藩は勤皇(きんのう)派(天皇親政の思想=倒幕)となり、新政府軍の一員として旧幕府軍と戦うことになります。北越戦争や会津戦争を転戦し、新しい時代を牽引していくのでした。また、信濃国では江戸時代に街道の整備や河川通船の開設が行われ、輸送業が盛んになります。これにより地場産業が発達していったのです。

徳川家康の五街道整備により、長野県域でも1602(慶長7)年に中山道、ついで甲州街道が開通しました。
『図説 長野県の歴史』(河出書房新社、1988年)を元に作成。

千曲川では1790(寛政2)年に、西大滝~福島(須坂市)間13里の通船営業が免許。たびたび通船計画出願はありましたが、そのたびに宿駅問屋や中牛馬村々が輸送業を奪われることを恐れ、猛反対していたため、信州の河川通船の開設は近世後期となってしまいます。
『図説 長野県の歴史』(河出書房新社、1988年)を元に作成。

【長野の歴史】明治維新直後に世直し一揆が頻発

信濃諸藩は戊辰戦争で活躍しましたが、その戦費は膨大な額に膨れ上がり、藩財政の赤字に拍車をかけます。このため明治維新後に藩は緊縮財政を行いますが、農民たちの反発を招き、長野県域では世直し一揆が頻発します。

その嚆矢(こうし)となったのが、1869(明治2)年の上田騒動です。一部の生糸買い取り商人が飯田藩の領内で偽二分金(にせにぶきん)(チャラ金)を流通させ、偽二分金の使用停止令が出ると、農村の経済は大混乱に陥りました。このとき一揆勢は上田城下まで乱入し、上田藩知事に偽金の交換や悪徳商人の追及を強訴(ごうそ)します。庄屋や商店など590戸を打ち壊しました。同年には筑摩郡でも会田・麻績(おみ)騒動が勃発します。翌1870(明治3)年には松代藩内で松代騒動が発生し、さらに同年に成立した中野県(中野市)では中野騒動が起き、県庁舎が焼き討ちにあいました。

【長野の歴史】廃藩置県を経て長野県が誕生

1871(明治4)年、中野県は長野県と改称され、県庁は善光寺に移されました。廃藩置県などを経て行政が整理され、1876(明治9)年には長野県に筑摩県が合流し、現在の長野県域が確定します。しかし新たに発足した長野県の県庁が北よりに位置しているなどの理由により、以降たびたび移庁・分県騒動が起こっています。

『長野県の歴史』(山川出版社、2012年)を元に作成。

領域は長野県が松代、飯山、須坂、上田、小諸(こもろ)、岩村田(いわむらだ)、椎谷(しいや)( 一部)、筑摩県が伊那、松本、高島、高遠、飯田、高山、佐竹出張所管内、名古屋県の木曽でした。
長野県立歴史館の資料を元に作成。

【長野の歴史】明治時代に入り、急速に押し寄せた近代化の波

明治時代に入ると、長野県内では養蚕と製糸業に力を入れ、県内業者が続々と器械製糸工場を設立し、中期頃には長野県は日本一の養蚕(ようさん)県に成長します。ところが、世界恐慌の影響で1930(昭和5)年には日本でも昭和恐慌が起き、海外への輸出品であった生糸を生産する企業は倒産に追い込まれました。このとき長野県内農家の多くはリンゴ栽培へと転換し、「信州りんご」のブランド化に成功します。

太平洋戦争の末期には、松代に大本営を移す計画も進行していましたが、工事が終わらないうちに終戦を迎えます。戦後、軽井沢に米軍演習地を建設する計画が持ち上がったときには、長野県民は徹底した反対運動を繰り広げ、1953(昭和28)年に同計画を撤回させます。県民団結の証として、この運動は「200万人の勝利」と呼ばれました。

高度経済成長期を迎える頃には、長野県は工業立県を目指して工場誘致などを積極的に進めます。環境問題には、1970( 昭和45)年、公害防止住民大会を開催して住民運動を展開し、現在では自然環境も回復してきています。また、農業の分野では、レタスやエノキタケに代表される全国トップの収穫物を数多く生産。高速道路で大都市圏へと出荷し、農業県としても存在感を示しています。

【長野の歴史】時代は令和へ~今後の課題は過疎地域への対策~

山や谷で地域が分断されている長野県にとって、高速道路や空港、新幹線などの交通網の整備は悲願でしたが、長野県外への人口流出を招いた面も否めません。長野県の総人口は2000(平成12)年の221万人をピークに減少傾向へと転じ、2020(令和2)年9月の時点では203万人にまで減っています。過疎地域への対策が今後の課題となるでしょう。

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長野県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。長野の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報満載!

Part.1 地図で読み解く長野の大地

・地形・地質総論「東西から圧縮されている長野」
・伊那山地と南アルプスを縦貫!日本最大の断層・中央構造線
・大地溝帯フォッサマグナとかつて信州が海だった証
・火山活動の歴史を物語る山容 八ヶ岳連峰の南北で大きな違い
・北アルプス唯一の活火山!焼岳の噴火と上高地盆地の形成
・天竜川と断層で形成された伊那谷の日本一の河岸段丘
・野尻湖のナウマンゾウ化石に旧石器人の生活が見える?
・千曲川沿いの段丘上に築かれ、急崖と川が守る上田城のすごさ

などなど長野のダイナミックな自然のポイントを解説。

Part.2 長野を駆け抜ける鉄道網

・高崎~長野の長野新幹線に始まり敦賀への延伸を目指す北陸新幹線
・66.7パーミルの勾配路線だった信越本線碓氷峠とは?
・東京と名古屋を結ぶ大幹線で山岳地帯を駆け抜ける中央本線
・明治期に開通し善光寺平と松本盆地を結ぶ篠ノ井線
・伊那谷やアルプスを望み旧型国電も走った飯田線
・県内最大の路線網を誇った、私鉄・長野電鉄の変遷
・別所温泉に向かう温泉電車、上田電鉄別所線の魅力

などなど長野ならではの鉄道事情を網羅。

Part.3 長野で動いた歴史の瞬間

・縄文遺跡の宝庫・信州は日本一の人口密度だった!?
・信濃の国は有数の馬産地! 都に名を馳せた望月の駒とは?
・弓馬に長けた信濃武士が源氏配下として平氏討伐
・信州の南北戦争と呼ばれる大塔合戦はどうして起きた?
・甲斐武田信玄vs越後の上杉謙信、二大英雄が激戦を演じた川中島
・流転した善光寺の本尊は天下人の元に安置された?
・松本の貞亨騒動や上田の宝暦騒動 信州で百姓一揆が続発したわけ
・松本城が直面した取り壊し危機 救ったのは松本の住民だった!

などなど、激動の長野の歴史に興味を惹きつける。

Part.4 長野で育まれた産業や文化

・江戸時代に整備された用水路 五郎兵衛用水路とは?
・信州の気候風土を生かした寒冷地農業のここがすごい!
・蚕糸王国として栄えた長野県が電気機械工業県に変貌したわけ
・明治期の外国人別荘に始まる軽井沢エリアのリゾート化
・洪水を繰り返してきた暴れ川、千曲川を巡る治水事業の全容
・日本三大奇祭に数えられる、諏訪大社の御柱祭の本質とは!?

などなど長野の発展の歩みをたどる。

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