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赤井直正(あかいなおまさ)=荻野直正(おぎのなおまさ)

戦国時代から安土桃山時代の武将。荻野直正(おぎのなおまさ)ともいわれる。通称、悪右衛門。氷上郡(現:兵庫県丹波市)を中心に丹波国で勢力を誇った。周辺の大名たちと戦いを繰り返し、丹波奥三郡(氷上・天田・何鹿)を支配下に置く。1568年、織田信長が上洛するとすぐ降ったが、信長と将軍・足利義昭が対立すると義昭方に。氷上郡に侵攻した但馬国・山名祐豊を撃退し、後に但馬国へ侵攻するも、明智光秀が挙兵したと聞き、居城・黒井城に戻り、信長に詫言を伝えて赦免される。

タウンゼンド・ハリス

アメリカ合衆国の外交官。初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使。民主党員。“タウンゼンド・ハリス”とも表記される。貿易業を営む。日本の駐在領事への就任を望んで、政界人の推薦状を得るなどして、初代駐日領事に任命された。当時、アメリカは在住の商人らに兼任させることが多かった。1856年、日本に到着し、伊豆下田へ入港。1857年、日米追加条約(下田協定)を調印。1858年、日米修好通商条約を締結した。

安井敬七郎(やすいけいしちろう)

明治期の日本の発明家、実業家。1855年、仙台藩出身。藩主が設立した『養賢堂』で修学後に上京。工学・化学を研究し、1885年に丸善に入社。丸善のインクの元を作る。丸善ではウスターソースの輸入販売も行われており、国産ソースも取り扱った。1892年退社。1896年に神戸に『安井舎蜜工業所』(現:阪神ソース)を設立し、自社ソース開発を開始。1900年、輸入ウスターソースと自家製ソースをブレンドした“日の出ソース”を発売した。

法然(ほうねん)

平安時代末期から鎌倉時代初期の仏教家。浄土宗の開祖。『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化した。1133年、美作国久米で誕生。13歳で比叡山延暦寺に登り、15歳で得度。京都・奈良で遊学。43歳の時、浄土宗を開こうと比叡山を下り、京都東山に。親鸞らが入門するなど勢力を拡げたが、1207年『承元の法難(じょうげんのほうなん)』で、僧籍を剥奪され、四国へ配流。その後、赦免の宣旨が下るが入洛は許されず。帰京を許された後すぐ、1212年に死去。

信夫山招魂社(しのぶやましょうこんしゃ)

明治12年(1879年)、福島県福島市に創建。戊辰の役に従軍した殉国者で相馬・田村・会津の招魂場に祀られていた御霊と、西南の役に殉じた管内人の御霊が合祀されたのがはじまり。のちに『福島招魂社』と改称され、昭和14年(1939年)に『福島縣護國神社』となる。太平洋戦争後、大霊神社と一時的に名称を変えたが、日本が主権回復した昭和27年(1952年)に『福島縣護國神社』に名称を戻す。御祭神は天照皇大御神(アマテラススメオオミカミ)。

山名持豊(やまなもちとよ)=山名宗全(そうぜん)

3代将軍足利義満によって但馬、備後、因幡の3カ国まで減らされた山名氏の所領を、足利4代将軍足利義教を暗殺した赤松満祐を討ったことで、播磨などを含む9カ国まで回復させた実力者。応仁・文明の乱では西軍の総大将として細川勝元率いる東軍と争い、戦乱のなかで病死した。「宗全」は出家後の法名。

木曽義仲(きそよしなか)

平安時代末期の武将。源義仲。源頼朝・義経兄弟は従兄弟。1180年、以仁王の令旨によって挙兵。1182年、以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、翌年の『倶利伽羅峠の戦い』で平氏の大軍を破って入京。都の治安回復を期待されたが失敗、皇位継承への介入などもあって、後白河法皇と不和に。1184年の『法住寺合戦(ほうじゅうじかっせん)』で後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉し、政権を掌握。しかし、源範頼(みなもとののりより)・義経との『粟津の戦い』で討ち死にした。

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