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田寸津比売命(たぎつひめのみこと)

天照大神との誓約によって須佐之男命の剣から生まれた三女神のうちの三女。2017年に世界遺産に登録された福岡の宗像大社沖津宮に海流をつかさどる神として祀られる。
田寸津比売命、湍津姫命とも記される。

徳川慶勝(とくがわよしかつ)

尾張藩14・17代藩主。美濃の高須藩主松平義建の次男として生まれるが、尾張徳川家の養子となる。尾張藩主として登用人事、緊縮による財政再建など、藩政改革を積極的に行った。いっぽうで鎖国攘夷の思想により、井伊直弼から退隠を命じられる。その後、井伊直弼が「桜田門の変」で暗殺されたことを期に放免となる。京都へ頻繁に出向いて朝廷側の信頼を得ると、幕府との連絡係として活躍し、第一次征討総督となる。尊王攘夷派として、周辺諸藩を勤王へ導く役割を果たす。

上杉景勝(うえすぎかげかつ)

安土桃山~江戸時代初期の大名。上杉謙信の養子(実母は謙信の姉)として上杉景虎と家督争いの末勝利し、謙信の遺領を継ぎ、越後(現在の上越)春日山に居城を築く。
豊臣秀吉の臣下となり秀吉に従い、小田原攻め、朝鮮出兵などにも出陣し、越後、佐渡、出羽、庄内を領土とする90万石大名となる。関ヶ原の戦いで石田三成と徳川家康に対抗するも敗れて、米沢30万石に減封され、以降米沢藩主として米沢で終生を送る。

五代友厚(ごだいともあつ)

薩摩藩出身の明治初期の実業家。藩命として長崎で航海、砲術、測量等を学び、ヨーロッパへ留学。帰国後は、薩摩藩の指導的立場で、おもに貿易で藩の発展に活躍する。明治以降は、官権判事、大阪府判事などを経て、実業家へ転身。その後は金銀分析所、鉱山、製藍、鉄道などあらゆる事業を展開し成功。また、大阪株式取引所、大阪商工会議所などの設立や運営を行い、大阪を中心に商工業の発展に大きく貢献した。

蒲生氏郷(がもううじさと)

安土・桃山時代に活躍した武将。近江国蒲生郡日野に生まれるも若年で織田信長に父の人質として岐阜へ送られる。元服後信長の娘と結婚し、日野へ戻り信長に仕え、その後豊臣秀吉に仕える。小牧・長久手の戦いで功績をあげ、伊勢松ヶ島(現松阪市)の12万石城主となる。
小田原征伐の功で会津若松へ移封、42万石(のち92万石)の領主となるも、40歳で病死。

藤原清衡(ふじわらのきよひら)

京から陸奥国府の官僚として赴任してきたといわれる藤原経清(ふじわらのつねきよ)の長男として生まれる。母は安倍頼時の娘。
源頼義と争っていた安倍氏が敗れ、父、経清もそれに伴い斬首となる。残された母は清原氏の嫡男と再婚。
その後、清原家の異父兄弟であった家衡と争い、そのときに陸奥守であった源義家の助力もあって勝利。その結果、安倍氏、清原氏の領土を引き継ぐことになり、平安時代後期に、奥州という広大な土地を支配した奥州藤原家の初代当主となる。
藤原清衡は、中尊寺を建立し金色堂を建て、5000巻を超える写経(紺紙金銀字交書一切経)をし、父や兄弟、兵士らの菩提を弔った。「東北を仏国土にする」というのが藤原清衡の願いであったといわれる。

相馬師常(そうまもろつね)=千葉師常(ちばもろつね)

鎌倉初期の御家人・千葉常胤(ちばつねたね)の次男。福島県内に勢力を維持し続けた相馬氏の祖とされる。
父から下総国(しもうさのくに)相馬郡相馬御厨(みくりや:現在の茨城県取手市・北相馬郡から千葉県我孫子市・柏市・野田市)という広大な地を相続し、この相馬郡を本領としたことから「相馬氏」を名乗ることとなった。また、欧州討伐の功によって陸奥国行方(なめかた)郡(南相馬市、飯舘村)も受け継いだ。

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