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枝正義郎(えだまさよしろう)

映画監督、カメラマン。1888年広島県生まれ。日本映画初期の先駆者、映画技術者の草分け。円谷英二をはじめ、多くの優秀な監督やカメラマンを育てた。1908年に上京し、日本で最初に映画の興行を手掛けた吉沢商店(日活の前身のひとつ)に入社。厳しい師匠のもとで現像と撮影技術を学んだ後、数社を経て、天然色活動写真株式会社(天活)で撮影技師に。洋画に負けない良質な映画作りのためにさまざまな技術開発を進めた。

北畠親房(きたばたけちかふさ)

後醍醐天皇の信頼が厚かった、南朝方の政治・軍事の中心人物です。建武政府に仕え、子の顕家とともに奥州や東国を転戦しました。南朝の正統性を主張した『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』の著者としても知られている。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)

大覚寺統から出た96代天皇です。即位すると院政を廃して、天皇の政治的権限を強めるなどの活動を開始。やがて幕府打倒の意思を固めていきます。強烈な個性の持ち主で、子が40人近くいました。

足利尊氏(あしかがたかうじ)

後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を滅ぼしながら、その後、後醍醐に反旗を翻し、建武政府を打倒。戦前まで逆賊の代表格とみなされてきたが、新たな武士の世を切り開いた存在として、現在は正当に評価されている。

足利義満(あしかがよしみつ)

3代将軍就任後、管領細川頼之の補佐を受けて幕府の基盤強化を推進。さらに花の御所(室町第(むろまちてい))で将軍権力を拡大。南北朝合一にも成功し、室町幕府の最盛期を築いた。15人の足利将軍のなかでも屈指の能力者といわれる。

楠木正成(くすのきまさしげ)

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。息子は楠木正行(まさつら)・正時(まさとき)・正儀(まさのり)。1331年の元弘(げんこう)の乱で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携。千早城の戦いで数々の戦術を繰り出し、全国に倒幕の機運を広げ、鎌倉幕府滅亡に貢献。建武の新政が始まると多くの所領を与えられ、後醍醐天皇の絶大な信任を受けた。ただ、すぐに足利尊氏が離反し、湊川の戦いで敗北し自害した。“不世出の戦術家”などと言われている。

木曽義仲(きそよしなか)

平安時代末期の武将。源義仲。源頼朝・義経兄弟は従兄弟。1180年、以仁王の令旨によって挙兵。1182年、以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、翌年の『倶利伽羅峠の戦い』で平氏の大軍を破って入京。都の治安回復を期待されたが失敗、皇位継承への介入などもあって、後白河法皇と不和に。1184年の『法住寺合戦(ほうじゅうじかっせん)』で後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉し、政権を掌握。しかし、源範頼(みなもとののりより)・義経との『粟津の戦い』で討ち死にした。

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